作文練習

何か書くと楽しい、かもしれない。

宗教的平等と世俗的平等

  キリスト教や仏教の意味する平等と、一般に世俗で言われる平等はかなりの違いがある。

 

 キリスト教は神に自分自身を捧げることを説く。信仰を持つ者は神の前ですべて平等であるとする。

 

 仏陀は自分に執着しないことを説く。それが苦しみから脱する術であり、そうして初めて生きとし生けるものすべてを等しく慈しむことができるとする。

 

 これらの教えのもとでは文字通り人間はみな平等だ。キリスト教と仏教ではアプローチが違うが、人と人を比較するのは愚かしいことだという着地点は似ている。

 

 これに対して一般的に世俗で用いられる平等は違ったものとなる。平等であるべきだという主張は常に不利益を被っている者、あるいは被っていると思っている者の立場から発せられる。その発信の出発点はいつも自分と他者の比較であり、平等という言葉は好ましくないギャップを埋めることを目的として使われる。

 

 腕力や財力のある者がそうでない者を理不尽に傷つけてはならないという教えは宗教の根本であり、宗教的平等を根拠にしている。しかし、それが世俗に降りると何故か平等はイデオロギー化してしまい、あたかも腕力や財力の代わりとなるパワーとして扱われてしまう。

 

 不平等や不公平ほど私の怒りを掻き立てるものはない。自己を神に捧げたり執着を無にしたりすることが難しいのだとすれば、せめてその裏に何があるのかを見つめていきたい。