作文練習

何か書くと楽しい、かもしれない。

能動のイエスマン

 ジム・キャリー主演の映画イエスマンは、イエスと言い続けて人生を良い方向に変えてしまう男の話だ。


 これとは別に、反対意見を述べずにただただ従う人もまたイエスマンと呼ばれる。「自分は利用されてばかりいる」「雑用ばかりやらされる」「はっきり断るには」というワードで検索すると、山ほどヒットする。ただただ従うだけのイエスマンの悩みだろう。


 映画のイエスマンと悩めるイエスマンとの違いは、イエスの責任が自分にあると自覚しているか否かだろう。責任を伴わないイエスは、自分の辛さを他人のせいにする受動のイエスである。

 

 私は、能動のイエスを言うために三つの関門があると考える。一つ目は自分と他人の尊厳が冒されないこと。これは直観的に分かることだ。二つ目は能力的時間的に可能であること。これはちょっとだけ吟味しなければならない。三つ目は、他人に見返りを求めないことだ。お礼を言われることさえも見返りに含まれる。事によっては窮地に陥った時に知らぬ顔をされることもあれば、石を投げられることさえある。これを自分の責任として引き受けられるかどうかが最大の関門だろう。

 

 イエスと言うのは大変なのだ。しかし、イエスの覚悟の先には、期待したほど素晴らしくはないにせよ、自分自身がいるのかもしれない。