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哲学入門(バートランド・ラッセル著)15章 メモ(6)

 ラッセルの哲学入門(参考1)15章「哲学の価値」の、抜粋と読書メモです。

 

P192、2行~P193、2行
 哲学的観想により見渡す範囲が最大に広がる時、宇宙は敵と味方に分けられることなく公平に見渡される。


 哲学的観想が純粋であるなら、人間と宇宙が同じ種だと証明しようとはしない。


 知識を得ることは自我の拡張だが、それが達成されるのは自我を直截に拡張しようとしない時だ。知識欲が活動しているときに、「対象はこの特徴を持っているに違いない」と判断せずに、対象の特徴に自我を寄り添わせることで自我は拡張する。


 自我をあるがままにしておき、世界を自我と似ているとするとき、自我は拡張されない。それは自己顕示欲だ。自我は成長を望んでおりそれが可能だと知っているものの、世界を自我と似ているとするとき、自我は成長しない。


 自己顕示欲は、哲学的に省察するときも、世界を自分の目的達成の手段として見る。つまり世界を自我より安く見積もり、世界の上限を自我が決める。


 対して観想は、自我ではないものから出発し、自我の限界を広げる。つまり宇宙の無限を観想する自我は、宇宙の無限の一部を共有する。

 

 

<読書メモ>
 インターネットの世界で起きる問題に例えて考えてみたい。


 自分の考えが正しいかどうかを調べるツールとして、インターネットは非常に便利だ。イデオロギー、歴史、政治、国際問題など複雑で妥協点が簡単に見つからない対象については大抵の場合、自分の正しさを補強してくれる意見を見つけることができる。 


 それらの意見は匿名のつぶやきから、しかるべき肩書と専門性を持つ人物の発言まで様々なレベルで存在する。しかし一つ間違うと、怒りや狭い尊厳の感情に後押しされて、怪しげな証拠や反対意見を蔑む態度までもが正当化されていく。


 そうやって得た知識は自我を成長させないとラッセルは言う。怒りをぶつけ狭い尊厳を守るという目的達成の手段として、インターネットはあまりにも簡単に使えてしまう危険を伴うツールなのだ。


 インターネットの情報は多く、どの学問についてもほぼすべての情報が揃うと言っても過言ではない。しかし、知識の無い人が断片情報を体系的に並べ替え、順を追って修得するとなると話は別である。不可能とは言えないまでも、数多くの試行錯誤が必要だと想像する。仮に出来たとしても個人の得手不得手が反映されるため、個人的なバイアスを消すには、それなりの書物を読むか修めた人に習うことが必要だ。

 

 ここまで書いて思ったのだが、私にとっての自我の外側はそれなりの書物、人、あるいは集団や組織ということになる。それなりであって面倒でとっつき難い対象であれば、自我の拡大に役立つと見てほぼ間違い無い気がする。


 余談だが、以前このブログで書いた「能動のイエスマン」が自我の拡大の方法として近いのかもしれない。私の憧れは、他人から依頼されたネタにイエスと答えて行動し、その責任を取る人だ。私の好みで選択したものが私の自我の一部だとすれば、「能動のイエスマン」は他人任せという面があるにせよ、私にとってはその方が遥かにましな選択だと言える。

 

 

<参考>
自己顕示欲: self-assertion(自己主張)
自我: Self
哲学的な省察: philosophic speculation

 

 

参考1 哲学入門 バートランド・ラッセル著、高村夏輝訳、ちくま学芸文庫、2018年、第二十刷
参考2 http://www.gutenberg.org/files/5827/5827-h/5827-h.htm