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哲学入門(バートランド・ラッセル著)15章 メモ(8)

 ラッセルの哲学入門(参考1)15章「哲学の価値」の、抜粋と読書メモです。

 

P194、1行~13行
 真の哲学的観想は、自我ではないものが拡大するとき満足を覚える。観想の対象と主体を強めるものに喜びを見出す。

 

 個人的・主観的・私的なもの・習慣・自己利益・欲望は、対象をゆがめ、主観と対象の間に壁を作り、知性の統一を損ない、知性にとっての牢獄となる。

 

 自由な知性は、ここもいまも希望も恐れもない。習慣化した信念や偏見にとらわれず、冷静かつ公平に非個人的で観想的な知識を得ようとする。自由な知性は、抽象的で普遍的な知識を、感覚を通じてもたらされた知識よりも重んじる。なぜなら感覚を通じてもたらされた知識は、排他的で個人的な立場や、対象をゆがめるかもしれない感覚器官に左右されるからである。

 

 

<読書メモ>
 個人的な習慣と欲は知性の牢獄を作るとラッセルは言う。欲を捨て、且つ自我を拡大する喜びを求めるとはどの様な状態なのだろうか。

 

 仏陀がその喜びについて述べていたような気がしたのだが、どうもうまく探し出せなかった。そこで今回は、自我の拡張を拒むことで自らを牢獄に追いやる状態について書かれたニーチェ道徳の系譜(参考3)を紹介する。

 

 「すべての貴族的道徳は勝ち誇った自己肯定から生ずるが、奴隷道徳は「外のもの」、「他のもの」、「自己でないもの」を頭から否定する(参考3 P46, 10行)

 

 以下、貴族的道徳と奴隷道徳の違いについて参考3から抜粋する。

 

 貴族的道徳を有する者の特徴は正直で無邪気であり、活動そのものが幸福と一致しているような能動を必然とする人間である。彼らには「敵に対する愛」がある。(ただし)彼らが相手にするのは極めて多くの尊敬すべき点のみを有する如き敵に限る。(参考3、P49, P51)
 
 一方においてニーチェは、奴隷道徳に対してまったく容赦がない。

 

 奴隷道徳は受動的な人間のものであり、麻酔・昏迷・安静・平和・安息日・気伸ばし・大の字になることが好きだ。奴隷道徳を持つ者は《反感(ルサンチマン)》を持っており、彼等は正直でも無邪気でもなく自分自身に対する誠実さも率直さもない。横目を使い、隠れ場・抜け道・裏口を好む。すべての隠されたものが彼の世界として、安全として、慰安としてお気に入りだ。彼等の心得る作法は、黙っていること、忘れない事、待つこと、差し当たり卑下し謙遜することだ。(参考3、P49) 
 
 奴隷道徳を持つ人は、誰かがプライベートでしくじった話や、違法すれすれの秘密の儲け話が大好きだ。有力者の庇護を求めて長いものには巻かれるが、その有力者に復讐できる機会をいつも伺っている。勿論、自分は危険に晒されない保障を担保した上でだ。

 

 多分、奴隷道徳を持つ人は「責任」という言葉を多用するのが好きだ。貴族的道徳を持つ人は自分が責任を取るのは当然のことなので、責任という言葉を念入りに何度も使う必要はない。

 

 しかし、自分に火の粉が降りかからぬことに必死な奴隷道徳の人は、自分に責任の所在がないという言質を取りたがるので「責任」という言葉を多用する。矢面に立つことや、核心に自分が関わった証拠を極端に嫌い、隠れ場で安全を確保する。

 

 このように、奴隷道徳と《反感(ルサンチマン)》を持つ人は自分以外の世界を憎しみの対象としてこっそり睨むだけで動こうとしない。だから自分の可能性を自ら広げることは無いのだろう。せいぜい奴隷道徳の世界の中で足の引っ張り合いをするのが関の山だ。まさに牢獄といっても差し支えなく、ラッセルの言う自我の拡張は為されない。

 

 それなら貴族的道徳が良いかというと、良いことに異論は無いのだが、それはあまりにも厳しく激しい。常に矢面に立って傷を負うことを覚悟しなければならないからだ。また、年を取ったからといって自動的に自我が拡張されたと思うのは間違いであり錯覚だ。そして時にその錯覚は害悪になることさえある。

 

 自我ならざるものを自我のバイアス無しに取り込むという自我の拡張はそんなに簡単なことではない。

 

 

参考1 哲学入門 バートランド・ラッセル著、高村夏輝訳、ちくま学芸文庫、2018年、第二十刷
参考2 http://www.gutenberg.org/files/5827/5827-h/5827-h.htm
参考3 道徳の系譜 ニーチェ著、木場深定訳、岩波文庫、2019年、第76刷