作文練習

何か書くと楽しい、かもしれない。

「語りえぬものを語る」 読書メモ(第21章、その2)

 本書(参考1)ウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。抜粋といっても私の理解できた内容に文章を崩している。本記事は21章の註に関する。
 以下、本文抜粋。

 

P370
【1 無用な知識】
  「知識はいつかどこかで活用されねばならない」は強すぎるだろう。けっこう沢山の知識が無用なものだと思われる。ただし、二点注意しておきたい。


(1)    知識は「公共財」だから、ある個人にとって無用でも共同体全体を考えれば無用ではない知識もある。
(2)    知識は単独で活用されるのではなく、組合せて活用される。複数の知識は互いに関係し合い、体系を成す。それゆえある知識を単体で取り出して無用だと決めつけてはならない。


 ではこの二点を踏まえても無用な知識はあるだろうか。


 無用な知識の場合には「成功裏に活用できれば真」というプラグマティックな基準は適用できない。では無用な知識はいかにして真とされるのだろう。


 歴史上の豆知識の場合、記録に残されていることがこれを真とする。一般に歴史的事実の場合、史料が証拠となる。そして証拠関係は、推論的なものだから言語的だ。この場合は語られたものが知識を正当化している。


 著者は語られないものが語られたものを正当化すると論じたが、語られないものだけが語られたものを正当化するとまでは主張していない。


 知識の正当化はプラグマティックなものが優先されるが、同時に証拠(語られたもの)に基づく正当化もなされる。われわれはこれらを併用しているのではないだろうか。


 ただし、著者はまだまだ検討すべきことが残されているため、この考え方も暫定的だという。

 

【2 知識を踏まえた行為】
 「知識を踏まえて行為する」という言い方は曖昧だ。そこで「踏まえる」を定義しておく。


 歴史の豆知識を披露して「へえ」と言ってもらうとか、その豆知識にちなんだラーメンが売れたりするかもしれない。しかしこれらは知識の正当化とは無縁であり、われわれが求める意味での知識の活用ではない。


 では「知識を踏まえて行為する」とはどういうことか。例えば目の前のものを見て卵だと判断する。著者はそれが卵だという知識と、「卵はゆでると固くなる」という知識を組み合わせてゆで卵を作る。著者は世界の事実そのもの、世界のあり方を利用している。


 知識を踏まえて行為することのポイントは、行為を通してその知識が世界と接触・交渉することにあり、世界の事実に到達していなければならない。


 豆知識にちなんだラーメンを売ることは、豆知識として語られた(書かれた)ことを利用しているが、豆知識そのものを利用しているわけではない。


 世界の事実を踏まえて行為することは、その事実が成り立っていることを前提に行為することだ。だからこそその行為の失敗は、その事実が実は成立していないかもしれないという疑いを促す圧力となる。

 

【3 観察文の真偽】
 著者は「語られないものが語られるものを真にする」からといってセンスデータ論には賛成していない。


 観察したものを報告する文を「観察文」と呼ぶ。例えば「私の机の上にはコーヒーカップがある」は観察文だ。センスデータ論はこうした観察文の証拠になるような経験があると考えた。だがそれは「所与の神話」批判が論じる通りまちがいだ。観察文はそれを疑う理由が無い限り、それを正当化する証拠を必要としない。観察文は無証拠だと言ってよい。


 むしろ、観察文はそれを踏まえて行為することにポイントがある。それゆえ、観察文はセンスデータ論とは違う意味で、語られないものによって真とされる。「私の机の上にコーヒーカップがある」という観察文は、私がそのコーヒーカップを手に取りコーヒーを飲むということを遂行できれば真なのだ。


 ただし、われわれは行為空間に生きているのでいたずらな懐疑は遮断されている。それゆえ、疑う理由がない場合観察文はデフォルトで真なのだ。


 だがわれわれはときに見間違いや聞き間違いをする。それは行為の失敗として現れるだろう。そのとき初めてわれわれはその観察文を疑う。観察文の場合は「語られない者によって真にされる」というよりも「語られないものによって偽にされる」と言ったほうがより実情に即している。

 

<読書メモ
 ここで批判されているセンスデータ論をもう一度ラッセルの哲学入門の記載から考えてみる。
 私は、前回のブログの読書メモで「ラッセルの哲学入門(参考2)では、非概念的経験の概念化については触れられていない」と書いた。もう少し引用するとラッセルは「センスデータに対応する対象があるという本能的信念(参考2 P31)があると述べている。 
 ラッセルの哲学入門を読んだ時は、「本能的」といった議論のしようのないものについて引っ掛かり無く読み進んでいたが、本書「語りえないものを語る」を読むに従って、そこに幾つもの細かい段階があるということに気付かされた。

 

 もう一つ、本論とは離れるが思いついたことを書く。


 恐ろしいことに、私自身の真偽は私自身が語ったこと“以外”で判定される。いくら立派なことや正論あるいは反省を述べたとしても、私からあふれ出す欺瞞や計算は相手に分かってしまう。まさに「語られないものによって偽にされる」とはこのことだろう。
 相手に自分の偽を悟られないためには、相手との交流を断つ以外に手段はない。自分だけの世界、他者との関わりの無い世界に行けば、他者から私を偽と判定されることもない。その世界で私は国王になれるだろう。しかしそんなところにリアリティは無い。
 ではどうすれば良いか。といっても、どうにもできない。無防備に私を語ることで、他者から私の語らない何かを批判され続けるより他に道は無い。破滅的だが、破滅への下降を優越とすり替える欺瞞が無い場合に限って、おそらくそこにはリアリティが有るのだろう。>

 

参考1 語りえぬものを語る 野矢茂樹著 講談社学術文庫 2020年、第1刷
参考2 哲学入門 バートランド・ラッセル著 高村夏輝訳 ちくま学芸文庫、2018年 第20刷(2005年発行)

「語りえぬものを語る」 読書メモ(第21章、その1)

 本書(参考1)ウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。抜粋といっても私の理解できた内容に文章を崩している。本記事は21章に関する。
 以下、本文抜粋。

 

P360
 現代哲学では「語られたことだけが語られたものを真にする」という考え方が主流だが、著者の考えは「語られないものが語られたことを真にする」である。

 

【所与という考え】
 「いま外で雨は降っていない」ということを「知っている」ためには根拠が必要だ。外を見て、青空があり道が濡れていないということがその根拠となる。


 ここでは、どういうルートでそれを知るようになったかが決定的に重要だ。人から教えてもらった情報や、本やインターネットで入る情報も、元をたどれば誰かが経験し観察したことに基づく。すなわち知識は経験に基づく。


 青空や道路が濡れていないことを観察し、雨が降っていないと知る。この観察に基づいたルートは適切である。観察は知識の出発点としてわれわれに直接与えられたものであり、その意味で観察は「所与(データ)」と呼ばれる。


 そして、知識がそこから出発すべき最初の地点として「感覚所与(センスデータ)」と呼ばれるものが考えられた。知識獲得の出発点は無知の人間にも観察できるものでなければならない。そうだとすると「道が濡れていた」は「道」や「濡れている」という概念が含まれているから最初の出発点ではない。(最初の出発点は)非概念的な経験なのだ。


 非概念的な経験とは机や棚の色と形から意味を剥ぎ取った非具象的な世界を見ることだ。


 他方、「雨」とか「降っていない」という言語的な知識は概念によって捉えられた概念的な知識だ。かくして「非概念的な経験(センスデータ)に基づいて概念的な知識が獲得される」という考え方が提唱される。

 

【所与の神話という批判】
 だがセンスデータ論は厳しく批判された。どうして非概念的で意味を欠いたものをもとに「だから、しかじかの知識が得られた」と言えるのか。


 ここにおける「だから」は因果関係ではなく推論関係だ。では、「このような非概念的な経験をした。だから、しかじかの知識が得られた」はどうか。知識を正当化するためのデータはその知識の証拠となるものであるから、その関係は推論関係でなければならない。しかし推論は言語的内容において成り立つものであるからだ。それに対して非概念的な経験は言語的な分節化をもたない場のようなものにすぎないので、何も推論できない。一切の意味を奪われたものは概念的な知識の証拠にはなり得ないのだ。


 ウィルフリッド・セラーズはこの事情を、非概念的経験は「理由の論理空間」には属さないと表現した。知識を根拠づける最終的な所与として非概念的経験をもちだす考え方を、セラーズは「所与の神話」と呼んで批判した。


 それゆえ、観察が概念的な知識の根拠となりうるためには、観察もまた概念的なものでなければならない。言い換えれば、語られた知識を支えるのは、語られた観察だけなのだ。


 かくして、非概念的な経験――非言語的な体験、すなわち語られないもの――は、知識にとって何の役目も果たさないと結論できるように思われる。しかし、著者はこれに反論する。

 


<読書メモ
 センスデータはバードランド・ラッセルの『哲学入門(参考2)』によると「感覚によって直接的に知られるもの――色、音、におい、硬さ、手触りなど――」であり、これらを直接意識している経験を「感覚」と呼ぶ。(参考2、P15)『哲学入門』においては、感覚が各人異なるにもかかわらずそれが一つの物だとどうして分かるのか、ということに言及しているが、非概念的経験の概念化についてはほとんど触れられていない。>

 


【知識の獲得と活用】
 われわれは概念化されたものだけに影響を受けるわけではない。インフルエンザの概念がなくても感染すれば身体は反応する。あるいは言語を持たない動物もさまざまな状況に反応する。人間も動物として非言語的・非概念的なレベルで状況に反応している。こうした動物的な生を適切に導くことが適切な概念的な知識と言える。知識の最終的な審級は概念的な観察ではなく、非概念的な動物的生なのだ。


 著者が共訳として関わったロバート・フォグリンのWalking the Tightrope of Reasonによると、人間の理性は野放図に本領を発揮させるとろくなことにならないので理性には手綱が必要だが、理性の手綱を理性にとらせてはならず、理性は非概念的な制約に服さねばならない。理性が非概念的な制約を逃れた最たるものが哲学であり、うまく手綱がとれている例が自然科学だという。

 


<読書メモ
 「理性の手綱を理性にとらせてはいけない」ということはいろんな人が過去繰り返し述べている。
 「悪魔は精神だけであり、その限り絶対に透明な意識であって、情状酌量に役立つべき無意識性をもっていないから、――その故に悪魔の絶望は絶対の強情である。」(キェルケゴール死に至る病』より(参考3、P81)

 最高の合理を備えたはずの官僚制も、理性に手綱を持たせると危険だ。
 「慈悲深い専制主義と絶対主義における一人支配が国家国民の最初の段階だとすれば、官僚制はその最後の統治段階である。(中略)実際、それはある環境のもとでは、最も無慈悲で、最も暴君的な支配の一つとなる場合さえある」(ハンナ・アレント『人間の条件』より(参考4、P63 )

 太平洋戦争は日本のトップの多くが反対していたという分析をよく目にする。これが本当だとすると、当時は高度な官僚制すなわち高度な組織的理性が支配していたことになる。現在の日本も、戦時中の多くの体制を残していることから、危ない面を保持しているはずだ。ジョージ・オーウェルの小説『一九八四年』(参考5)の例を挙げるまでもなく、日本はリアルに官僚制の恐ろしい一面を知っていなければならない。>

 


【科学と技術】
 「観察データを集め、それをうまく説明するような理論を立てる」というのは自然科学の半面でしかない。知識は獲得するだけではなく、使うためにある。そして知識を活用する場面こそ、知識は非概念的な制約に服すことになる。


 ここで科学と技術の関係を「科学理論が技術と独立に前もって確立され、それが技術に応用される」と考えてはならない。科学と技術の関係は一方向的ではなく互恵的だ。すなわち人間がその技術を用いて活動することにおいて、理論は世界と接触し、擦り合わされる。技術における成功は理論の信頼性を増し、さらなる理論展開を促すだろうし、技術における失敗は理論のどこかがまちがっていたのではないかと疑わせるきっかけとなる。


 科学における実験の役割はたんにデータの収集だけではない。理論を技術の形でわれわれの生活に取り込む前に、人工的に整えられた環境の中で模擬的に適用してみるという意味が、実験にはある。


 実験であれ実際の活用であれ、概念的に捉えられた理論を物として実現し、世界の中で動かしてみる。それは順調に動いたり抵抗にあったり、あるいはまったく動かなかったりするだろう。その抵抗こそ、非言語的な場としての世界が理論に向けてくる「力」なのだ。


 「所与の神話」は知識を獲得する場面に関しては正しい。しかしそれは「知識は経験に基づく」ことの半面にすぎない。知識の活用においては非言語的体験――語られないもの――こそが決定的に重要な役割を担っている。

 

【知識と行為】
 日常的な知識の場面でも、知識は活用されるべきである。もちろん持っている知識すべてが活用されることはあり得ない。だが、知識である以上誰かがどこかで活用する場面が見出されなければならない。


 知識の活用は、最終的にはそれを踏まえて行為することだ。雨が降っている知識を踏まえて傘をさすという行為が導かれる。ここにおいて人は非言語的な体験に晒される。うまくいけば知識は信頼性を増し、そうでなければ再点検されねばならない。このようにして「語られないものが語られたものを真にする」のである。

 


参考1 語りえぬものを語る 野矢茂樹著 講談社学術文庫 2020年第1刷
参考2 哲学入門 バートランド・ラッセル著 高村夏輝訳 ちくま学芸文庫、2018年 第20刷(2005年発行)
参考3 死に至る病 キェルケゴール著 斎藤信治訳 岩波文庫、2019年第108刷(1939年発行)
参考4 人間の条件 ハンナ・アレント著 志水速雄訳 ちくま学芸文庫、2022年第42刷(1994年発行)
参考5 一九八四年 ジョージ・オーウェル著 高橋和久訳 ハヤカワepi文庫、2020年 第4刷(2009年発行)

「語りえぬものを語る」 読書メモ(第20章、その2)

 本書(参考1)ウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。抜粋といっても私の理解できた内容に文章を崩している。本記事は20章の註に関する。
 以下、本文抜粋。

 

P350 
【1 過去整合説】
 整合性のチェックだけが過去命題の検証手段であるという考え方を過去整合説と呼ぶ。これは一面では不十分であり、一面では過剰である。


 現在まで真とみなされた過去命題の集合をAとする。そこにAとの整合性が無い新たな過去命題pが付加されたとする。そのとき我々は整合性を回復するよう修正を施す。しかし、過去整合説は「整合性が回復されたならば、その整合的な集合に属する過去命題は真だ」と述べるだけで、どのように整合性を回復したのか、あるいはどのように整合性を回復すべきなのかについては何も述べていない。これが過去整合説の不十分さのひとつだ。


 また、過去整合説だけで考えるならば、かなり突拍子もない修正も可能となる。過去命題aとbが不整合を起こしているならば、aを真としてbを偽とするか、aを偽としてbを真とするか、aもbも偽とするかの3つの選択肢がある。過去整合説はその3つを均等に扱うしかない。bが荒唐無稽であっても排除できない。この点も過去整合説は不十分だ。


 過去整合説が過剰だという説明は以下のとおり。例えば我々はさっきコーヒーを飲んだという記憶にいちいち整合性のチェックを施さない。さらにはそれを明示的に思い出さないことさえある。例えば次の授業の準備をする際、前回の授業内容を暗黙裡に踏まえている。こうして明示的にせよ暗黙のうちにせよ、(我々は)過去のことがらを鵜呑みにして生活している。


 もし諸命題の整合性を論理的な可能性すべてを均等に考えるならば、すなわち論理空間上で考えるならば、我々は身動きができなくなる。よって我々は行為空間の中で、荒唐無稽な可能性を無視して明晰な記憶を無条件で信頼することにより、(整合性を)考えねばならない。


 行為空間の中で過去命題を検証するなら、整合性のチェックは行為・実践との関係から捉えなおさねばならない。それはプラグマティズムの真理観に近いものとなるだろう。


【2 歴史的過去の過去自体】
 著者が過去自体と呼ぶものは、今のところ直接体験した範囲にとどまる。そこで我々の記憶を超えた過去をとりあえず「歴史的過去」と呼ぶことにする。歴史的過去の過去自体についてはどう考えればよいのだろうか。


 歴史的過去は想起的にではなく史料に基づいて探求される。その史料の元が作者本人のものであれ伝聞や史料を参照されたものであれ、必ず誰かの記憶に行き着く。史料はかつての触発の残響だ。よってその史料もまた非言語的な過去自体に取り巻かれていると考えるべきだろう。


 われわれが史料にかつての触発の残響を聴き取るのは、史料を言語的に読み取るからでしかない。言語が無ければ過去は体験の範囲を超えることはない。言語を持たぬ動物たちは歴史意識をもち得ない。


 われわれは歴史的過去を語る。過去を物語ることによって体験の範囲を超えた過去が開ける。ここで改めて過去は史料に基づいて語られなければならない。単純化して言うならば、平安時代に書かれた日記を読む時、われわれは書かれたことから平安時代の物語を組み立てる。しかし同時に平安時代に書いたという著者自身もその物語に投げ返される。すなわち著者を触発し非言語的な体験たる過去自体を想定する。


 こうして史料は過去物語を開き、その物語の内に自らを位置付けることによって、その過去物語を取り巻く圧倒的に豊かな過去自体を横たわらせる。
 

【3 身体的記憶と言語的記憶】
 ここで身体的記憶と言語的記憶の関係について補足する。


 過去のできごとを思い出すことは「想起」と呼ぶ。これに対して自転車の乗り方を覚えていることを「身体的記憶」と呼ぶ。身体的記憶のポイントは、想起と異なり、過去への指向性が見出されないことにある。想起と身体的記憶をあわせて「記憶」と総称する。「思い出す」という語は「想起」を、「覚えている」という語は記憶一般を表す。


 想起と身体的記憶は過去への指向性をもつかどうかで区別されるが、言語的記憶と非言語的記憶の区別に重なるわけではない。


 想起のポイントである過去への指向性は言語使用によってのみ生じる。過去形を用いた言語使用だけが過去世界を過去として開くことから、想起は必ず言語的な部分を含まねばならない。


 しかし、想起されることのすべてが言語的である必要はない。例えば昨夜の演奏会の演奏を思い出すとき、言語的に思い出すだけではなくその雰囲気を非言語的に思い出す。(想起は非言語的なものを含んでもよい。)


 一方で「身体的記憶はすべて非言語的」だとも言い切れない。過去の境内での非言語的体験を著者は過去形という言語的なもので表現するが、それらはすべて過去自体に触発された身体反応である。「境内には誰もいなかった」という音の組合せを発することは身体的記憶であり、かつ言語使用であるため過去への志向性が生じ、想起にもなる。想起の基盤には非志向的な身体的記憶がなければならない。


 とはいえ、まったく非志向であれば「記憶」とも呼べない。例えば、運動神経の良い人が未経験の一輪車に乗れることと、練習した著者が自転車に乗れることを比べた場合、後者のみが身体的記憶だと言える。違いは過去に練習をしたかどうかだ。「自転車の乗り方を覚えている」とは「おそらくは練習したが今はそのことをもう忘れているのだろう」と考えることだ。しかしこの身体的記憶は過去の練習を言語的に思い出すことで正当化される。


 つまり身体的記憶が記憶であるためには言語的な想起を必要とする。身体的記憶はそれ自体では過去への志向性を持たない。それゆえ身体的記憶を過去へと結びつけるものは言語的な想起以外にない。


 かくして、ここに興味深い構造が確認される。言語的な想起は身体的記憶を基盤として必要とするが、身体的記憶を記憶たらしめるには言語的な想起が必要となる。言い換えると、――言語的な想起という能力は身体的記憶が支え、「身体的記憶」という概念は言語的な想起が支える。


 これは過去自体と過去物語の関係だ。過去物語は過去自体に触発されて成立するが、過去自体を「過去」自体とするものは過去物語なのだ。


<読書メモ
 a)物における「物自体」、b)物自体に触発される非言語的体験、c)そこから分節化された言語。
a’)過去における「過去自体」、b‘)過去自体に触発された身体的記憶、c’)そこから分節化された言語による過去物語。
 a“)私における「私自体」、b“)私自体に触発された非言語的な私が私であるという統一感、c“)そこから分節化された私物語。
a”~c“が本書に書かれているかどうかは定かではないが、おそらく同じ構造で説明することが可能だと予想される。

 そもそも非言語的体験を分節化し言語化するのは常に「私」だ。言語的記憶から豊かな過去自体を蘇らせるのも「私」だ。他人の助けを借りなければどこにも辿り着けないが、辿り着く主体はいつも「私」だ。

 しかしそこには必ず嘘が隠れていそうだ。私は私自体から私物語を紡ぐとき、私の都合で何かを書き換えていることを認識できるのだろうか。>


参考1 語りえぬものを語る 野矢茂樹著 講談社学術文庫 2020年、第1刷

「語りえぬものを語る」 読書メモ(第20章、その1)

 本書(参考1)ウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。抜粋といっても私の理解できた内容に文章を崩している。本記事は20章に関する。
 以下、本文抜粋。

 

P341
【過去自体】
 過去の出来事について二人の記憶が食い違うことに関し、野家啓一氏は次のように主張する。

 

 「過去の事実は一つしかないのでどちらかが記憶違いをしているという思いは間違いではない。しかし、記憶違いを正す唯一無二の『過去自体』がどこかに存在すると考えるならば、大きな哲学的誤りを犯すことになる。それはカントの『もの自体』と同様に、少なくとも認識論的にはいかなる理解可能な意味も持つことはできないからだ。」

 

 著者も「過去自体」は存在すると考えるが、野家氏と著者の「過去自体」の意味は異なる。

 

【思い出すことと過去を語ること】
 野家氏の議論は大森荘蔵の議論を引き継いだものだ。野家氏は歴史を物語ることに視線を向け、大森は想起という体験のありかたを捉えようとする。著者の関心も想起にある。しばらく大森の議論を追っていくことにする。

 

 思い出すとはどういうことか。思い出すことは単なる想像ではないとすれば、想像と異なる特徴すなわち想起に特有な特徴が何かあるのだろうか。

 

 ラッセルなら「なじみの感じ」とか「過ぎ去った感じ」というだろう。しかしそれらは想像の中にもある。

 

 それに対し大森は、そうしたイメージそれ自身にはいかなる過去性のしるしもないと指摘する。イメージが過去のものになるのは、例えば「誰もいなかった」のようにイメージを過去形で語るからだ。かくして大森は想起を言語的なものと捉える。想起の本質はイメージを思い描くことではなく、過去を語ることにあるというのだ。

 

【早期を過去自体と比較することはできない】
 想起と想像を区別するのは、想像の語りが偽でもかまわないのに対して、想起の語りは真であるとされるべき点にある。偽な想起は訂正されるか撤回されねばならない。


 想起を過去の事実の写しのように考えるのであれば、そのとき、想起の真偽は想起と過去の事実との比較によって決定されることになる。ただし過去に戻ることはできないので、想起と体験の比較は不可能である。


 実際にどのように想起の真偽が決められるか考えよう。われわれに与えられているのは現在のことがらだけだ。他人の記憶、日記や手帳、物的証拠、正しいと認めている知識(世界のあり方、自然法則等)。そしてあるひとつの想起は、それを取り巻くこうしたもろもろのことがらとの整合性によって真偽が決定される。もちろん単純ではないだろうが、このやり方しかなく、多くの想起はこのやり方で実際に真とされている。


 大森は、こうした整合性のチェックをわれわれの社会的制度と考え、それによって確立される真理性を「制度的真理概念」と呼ぶ。

 

 「この真理概念によって真理とされる過去命題を系統的に接続すれば一つの物語ができあがる。この物語こそ、われわれが想起による過去と呼ぶものにほかならない。過去とは過去物語なのである。」(「物語としての過去」『大森荘蔵著作集』第九巻『時は流れず』、岩波書店、15ページ)

 

 大森もまた、野家と同様、過去物語と独立な過去世界を「過去自体」と呼び、その想定を拒否する。過去世界は過去物語と独立なものではありえず、われわれの社会制度を背景とした過去物語によって構成されるというのである。

 

【過去の独立性】
 著者はこうした議論の殆どに賛成する。想起の真偽を過去の事実との比較によって決定することは不可能である。それゆえ、整合性のチェックは想起の真偽にとって重要になる。著者は整合性のチェックを過大評価すべきではないと考えるが、それは大森や野家の議論の大枠を崩すものではなく、「制度的真理概念」を実情に即した形で仕上げる必要があるというにすぎない。


 問題は、「過去世界は想起と独立ではない」の意味にある。


 大森の議論はこうだ。過去世界は過去物語によって作られることを認めたとしても、そこから過去世界が過去物語に等しいことは出てこない。大森は過去世界の作り方は述べたが、作られたものが何であるのかは別の話だ。


 ここで「過去物語によって作られる」の「によって」に注目する。「によって」は構成要素、方法、作り手など複数の意味があり混同してはならない。「シチューは太郎によって作られた」としてもシチューの構成要素が太郎というわけではない。過去世界すなわち過去物語とは言えないのだ。

 

 実感に従うならば、過去は思い出そうが出すまいが、それと独立に存在する。著者はこの実感を保持したいという。同時に大森や野家が言うような、過去世界は過去物語によって作られるという論点も掬い取りたいという。つまり過去世界は過去物語によって、過去物語とは独立なものとして作られる。だが、それを明確にするのは難しい。

 

【非言語的な過去と身体的記憶】
 著者は、言語的に分節化された世界は非言語的な体験の海に浮かぶちっぽけな島にすぎないと述べた。それに加えて過去における非言語的体験を「過去自体」と呼ぶ。

 

(ただし大森や野家の言うそれは言語的に分節化された過去世界だが、著者の言うそれは非言語的である。カントの言う物自体に近い意味で著者は過去自体という言葉を使うのだと述べている。)

 

 たとえば、体験による多くのことは言語的に分節化して捉えられるが、同時に圧倒的に豊かな非言語的体験に晒されてもいる。それはさまざまな形で(私に)影響を与える。著者は、非言語的な分節化されていない体験は原因として特定できないので、(この影響のことを)「因果」ではなくカントに倣って「触発」と呼ぶ。


 過去の非言語的イメージすなわち「過去自体」が(現在の私を)触発して非言語的イメージが(私に)現れるのだ。


 一般に自転車の乗り方や文章の書き方は想起と区別される。野家はこれを「身体的記憶」と呼ぶ。想起と身体的記憶の違いは、過去への志向性をもつかどうかにある。想起は過去についてのものだが、身体的記憶は過去についてのものではない。


 ベルクソンラッセルや大森氏、野家氏は身体的記憶を軽視した。しかし著者はこれに異を唱える。著者は非言語的な身体的記憶が無ければ言語的な想起も成り立たないと考えた。

 

【過去物語を触発する】
 過去について語ることは、過去自体に触発された身体反応だ。その意味で言語的な想起は身体的記憶の一種と言える。


 だが言語的な身体反応は事態を決定的に変化させる。「蝉が鳴いていた」という言語的な分節化は言語習得によって身についた身体反応であるが、同時に日本語の文でもある。それは、日本語によって開かれる論理空間内に「蝉が鳴いていた」という事態を指定することになる。こうして「蝉が鳴いていた」という過去物語によって非言語的な体験の場としての過去自体は、過去物語によって言語的に分節化された過去世界になるのだ。その意味では分節化された過去世界は現在の過去物語によって作られているといえる。


 しかし過去世界は過去物語ではない。(ここで重要なことは、)分節化された過去世界は過去物語の原因として作られるということだ。(分節化によって)触発は因果として捉えられる。いま「蝉が鳴いていた」と物語ることは、蝉が鳴いていた出来事に因果的に引き起こされたものとされる。つまり過去物語によって作られた過去世界はその過去物語を引き起こした原因なのだ。


 そして、原因と結果は同じものではないし、原因と結果の関係は必然的なものではない。かりに過去物語という結果に結びつかなかったとしても、その原因となった過去世界は存在する。


 著者は(非言語的)体験を、著者が物語る過去世界から独立するものとして語り出す。


 過去自体を「物語としての過去」に対して「語らせる過去」と呼ぶ。ここでも「語らせる過去」は「語られた過去」よりもはるかに豊かだ。語らせる力を持った過去が語られなかったとしても、それを「語られないがゆえに存在しない」と言うことはできない。

 


<読書メモ:
 「因果は人が作る」。この言い回しは哲学的思考に慣れない人にとっては奇異に感じるだろう。自然科学に造詣の深い人ほど違和感を感じるかもしれない。しかしそう考えることによって色々なことが説明できることも否めない。


 非言語的体験は何も自然現象にだけあるわけではない。人との関わりにおいても非言語的体験は多分に存在する。ボディランゲージと呼ばれるものからちょっとした表情や目線、間のとり方、文化的慣習に基づく反応の予想と答え合わせなど多岐にわたり、おそらくすべてひっきりなしに感覚されるものだ。


 非言語的体験が分節化されて言語化され、抽出された言語だけが流通するパターンの一つとして「噂」がある。噂は他人による想起と因果の発信だが、何人かを介するうちに発信者と異なる想起と因果が加味され、それぞれの真偽判定が加わってどんどん変形していく。噂を聞いた人にとっては噂を触発した過去物語は直接の非言語的体験として存在しないので、真偽の判定は非常に難しくなる。より近いソースとしての噂の当人に直接会って確認するまでは、真偽の判定を棚上げした方が良いことが結構あるのだ。


 「噂」は卑近な例として出したが、大きく捉えるならば「因果は人が作る」という部分に異文化理解、他者理解、最終的には自己理解の鍵があるという気がする。>

 

 

参考1 語りえぬものを語る 野矢茂樹著 講談社学術文庫 2020年、第1刷

「語りえぬものを語る」 読書メモ(第19章、その6)

 本書(参考1)ウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。抜粋といっても私の理解できた内容に文章を崩している。本記事は19章の註に関する。
 以下、本文抜粋。

 

P339
【3 二元論】
 著者の自説はデイヴィドソンが批判した(クワインの)二元論とは異なる二元論だ。


(まずクワインの二元論から)


 枠組と内容の二元論の直観的な原型の例はブロンズ像だ。ブロンズ像には青銅と形という内容と形式が与えられ、青銅と形という二つの要因によって一つの象が成り立っている。同様に、枠組と内容の二元論は、認識を成立させるために素材となる内容とそれに形を与える枠組みを考えるのである。


(次に著者の二元論)


 対して著者は相貌をそのような二層構造とは捉えない。相貌は相貌中立的な何かに担われていない。例えばコーヒーカップという相貌には相貌中立的な「基体」のごときものは認められない。相貌は端的に立ち現われるものであり(デイヴィドソンが批判したクワインの)二元論的構図はない。


 だが相貌だけがあるのではない。相貌をはみ出したもの、相貌という島を取り囲む海、すなわち非言語的な場が存在する。それは現象として現れてはいないが、著者を突き動かし、相貌を生成。変化させる力として剥き出しになっている。


 これは決して神秘的な何かではない。眼前の光景も、言葉で表しきれない圧倒的に豊かなものに溢れている。


 著者の自説をあえて二元論というならば、それは力と相貌の二元論、すなわち語らせる力と語りだされる相貌の二元論だ。

 

<読書メモ:
 今回の論旨を理解するのは難しい。著者の自説とクワイン全体論との共通点な何かという点と、デイヴィドソンの説によって著者の説のどこが批判され得るのかという点が分かり難い。
 デイヴィドソンが批判したクワインの二元論は第6章に記載されているので、以下に引用する。

 

クワインが提唱した全体論(ホ―リズム)においては、「理論全体が経験に適合したり適合しなかったりする。そしてひとつの理論全体の中には、理論命題だけでなく、その理論に関わる観察命題も含まれる。そうした命題の体系全体が経験と擦り合わされるのである。」参考1 P97) 

 

そして、クワインの残した宿題が示される。

 

 クワイン全体論において「理論」とは諸命題の体系にほかならない。他方、彼が「経験」と呼ぶものは命題的なものではない、すなわち非言語的なものであろう。だが、命題の体系たる理論全体が非言語的な経験と接触し(impinge on experience)、経験と衝突(conflict with experience)を起こし、感覚経験の審判を受ける(face the tribunal of sense experience)というのは、いかにしてなのか。命題は命題によってのみ確証されたり反証されたりするのではないだろうか。」(参考1 P98)

 

 以上を踏まえ、私の不明点は以下の三つだ。
(1)    クワインと著者の共通点は、経験という非言語的なものがベースであるということなのだろうか。
(2)    事象や事物を捉えるのにクワインは内容と枠組みの二元論、著者は力と相貌の二元論だと言っているが、その区別はどうやって生じているのか。

(3)「概念枠以前の経験的内容という考えに実質を与えることはできない」という相対主義批判に著者はどう答えるのか。

 

 何度も読んでみたが、はっきりと理解できない。(3)については後の章で細かく説明されると予告されているので、それを待ちたい。>

 

 

参考1 語りえぬものを語る 野矢茂樹著 講談社学術文庫 2020年、第1刷

「語りえぬものを語る」 読書メモ(第19章、その5)

 本書(参考1)ウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。抜粋といっても私の理解できた内容に文章を崩している。本記事は19章の註に関する。
 以下、本文抜粋。

 

P334
【2 痛みという語の習得過程】
「イタイ」という発声と泣くことの関係について『哲学探究』から引用する。

 

<『哲学探究』引用はじめ> 語はいかにして感覚と関係づけられ、その結合は確立されるのか。人は感覚の名の意味をいかにして習得するのか。一つの可能性は、言葉が原初的で自然の感覚の表出に結び付けられその代わりとなること。

 大人は子供にイタイという発声を教え、後に文を教える。大人は子供に新しい痛みのふるまいを教えるのだ。

 痛いという語は泣き叫ぶことを記述しているのではない。痛みの言語表現が泣き叫ぶことにとって代わっているのだ。<引用終わり>

 

 ※引用部分もブログ作者が主観で意訳

 

 この部分の解釈としては、感覚に対する一人称現在の発話「私はおなかが痛い」は自分の腹痛の記述ではなく呻き声などの自然な身体的表出に類するとするものだ。これは「表出説」と呼べる。


 しかし著者はこの表出説の立場はとらない。「おなかが痛い」はあくまでも腹痛の感覚記述に用いられると考える。


 ウィトゲンシュタインは表出説をとっていると結論するのは慎重にならねばならない。ウィトゲンシュタインは最初、『論理哲学論考』において「世界の象としての言語」すなわち言葉を記述のためのものとして捉える見方をしていた。しかし、後年の『哲学探究』では、言葉を記述のためのものという考えをウィトゲンシュタインは変えている。この考えの変化に関して表出説は魅力的かつ重要である。


 ウィトゲンシュタインの通例として、とりあえずそれで行けるところまで行ってみようという態度がある。従ってここではウィトゲンシュタインが最終的に表出説をとったかどうかは保留しておく。


 先の引例を読み返すと、これは決して表出説を主張し支持するものではない。著者は引例の主張を著者の考えに組み込めるとしている。

 

 問題はわれわれが痛みという語をどうやって習得するかだ。ウィトゲンシュタインは一つの可能性として「新しい痛みのふるまい」として泣き叫ぶ代わりにイタイという発声を教えることを挙げている。


 しかし著者は原初的感覚の語と場合、これは「一つの可能性」ではなく「唯一の可能性」になる。


 「痛がゆい」のような複合的な感覚語ではまた別の習得過程が考えられるが、「イタイ」といった原初的感覚語の場合はそれが新たな身体反応となるように訓練するしかない。


 「痛い」を習得するストーリーを素描してみる。(過度に単純化されたストーリーは虚構だが、一つの見方をわれわれに与える。)

 

 「痛い」を教わる前の子供はなんらかの非言語的体験はもっている。それは大人から見て特徴的な状況と特徴的な身体反応を示す。ひざを擦りむいて泣き叫ぶ子に大人は「イタイ」の発声を教える。これは条件付け訓練と同じだ。泣き叫ぶことにならぶ新しい痛みのふるまいを仕込むのだ。


 次に「イタイ」という発声を利用して子供を「痛み」という日本語の言語ゲームに巻き込む。そして子供は「イタイ」という発声がなぐさめや手当を求めるアピールになることを学ぶ。やがて否定形や過去形、一人称以外の使用を学び、嘘も学ぶ。かくして「痛み」という語を用いた文の真偽への関心が芽生え、子供は感覚記述の言語ゲームに参加する。これが習得過程である。


 先に示した『哲学探究』の引例はこの習得過程の出だしの段階を示唆したものと読める。したがって(この引例は「表出説」の妥当性を問うような)われわれの言語ゲームの記述ではないが、言語ゲームに接続することは可能だ。

 

<読書メモ:

 痛みの感覚と痛みという語が結びつくのは訓練による習得だと著者は言う。確かに私は、もうこの結びつきを分離することができない。発声を教わり、ふるまいを教わり、泣き声やうめき声にとって代わる。

 これは子供に限ったことではない。大人も日々教育されているのだ。最近の例では「ヤバい」という語だ。「危機的状況」を示す元の意味に加えて「卓越性」が混ざり、適用の拡張が行われたのはここ2、30年くらいだろう。

 ともかく私は「ヤバい」を感覚的なレベルで理解し使用することができる。「ヤバい」を習得する訓練を私は行ってきたのだ。>

 

 

参考1 語りえぬものを語る 野矢茂樹著 講談社学術文庫 2020年、第1刷tp

「語りえぬものを語る」 読書メモ(第19章、その4)

 本書(参考1)ウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。抜粋といっても私の理解できた内容に文章を崩している。本記事は19章の註に関する。

 以下、本文抜粋。

 

P330

【1.複雑な私的言語】

 「E」には特定の体験を分節化する力はない。だが、自分の中で別の体験が生じそれを「F」と名付け、さらに別の体験が生じそれを「G」と名付ける。その時私的に体験がE、F、Gと分節化されうるのではないか。永井均氏は複雑な私的言語による私的な分節化、即ち独我論的秩序の可能性を主張する。

 

 永井氏は言う。私的言語「E」に加えて私的言語「F」の導入も考えてみる。「E」と「F」は異なる体験を名指し、また特徴的な状況や身体反応も伴わないと想定される。そして他人とは関係なく自分だけがEとFの二種類の体験を見出している。EもFも独立であれば成立が不可能な私的言語であるのだが、それらに相関関係があるとすればどうなるだろう。Eに続いてFが起きるという相関関係がある場合、もしもFが起きていなかったとすればEが起きたという判断は偽と判定できるのではないか。E単独の場合は実際に真偽が判定できるのであれば、私的言語は成立するかもしれない。

 

(しくい、ろましい、こむじいの文例あり)

 

 いつもはEに続いてFが起きるのだが、そのときはFが起きなかったとする。すると、私の中でEは本当に生じたのかという疑問が起こる。即ち「Eが起こったと思う」ことと「Eが起こった」こととの間にギャップが生じる。このギャップはこれまでの私的言語ではありえなかった。「Eが起こったと思う」ことと「Eが起こった」は完全に融着していたからだ。こうしてEに加えてFを考え、EとFの連動を考えれば私的言語の批判はかわせるのではないか。

 

 (しかし著者は永井氏に反論する。)

 

 Eに続いてFが起きることに例外が無い場合と有る場合を考えてみる。

 

 (1)例外が無い場合。

 EとFは一体であり、まとめてSという私的言語にまとめることもできる。そうなると私的言語Sは単独では成立しない。

 

 (2)例外がある場合

 Eの後にFが生じない場合、EとFの連動を考える以前に、それらはそれぞれ独立した私的言語でなければならない。つまり私的言語Eが成立しないならば、同じ理由で私的言語Fも成立しない。

 

 つまり私的言語は分節化されない場となるしかない。

 

<読書メモ

 いったい、私の中には他者とは関係なく存在する私的言語はあるのだろうか。言葉にするのが難しい体験や感覚は山の様にあるが、それを説明しようとするとき私は必ず既存の日本語を使う。「説明しようとする」こと自体が他者との関わりを求めているのだから他者に通じる言語を使うことは避けて通れない。

 既存の単語の意味を拡張すること(例えば「夜の底が白くなる」)を含めた言葉の発明も、他者との関係を前提に成立することに変わりはない。

 そうなると、無理やり「しくい」「ろましい」「こむじい」という言葉を意図的にひねり出す以外に私的言語と呼べる言葉を自分の中に持つことは無いような気がする。

 しかし、私としては直観的にしっくりこない。

 感覚の世界から突如言葉が立ち上がるなんてことがあるのだろうか。私は感覚と分節化の間にグラデーションを持った中間体のようなものが存在するような気がしてならない。そのグラデーションの中に私的言語と呼んでもよいものが隠れていそうな感じがする。

 著者は教育と訓練の過程で感覚と分節化のグラデーションを説明しようとしている。しかし完璧な習得が無いとすればいつまでもグラデーションは残っていそうなものだ。

 もどかしい。>

 

 

参考1 語りえぬものを語る 野矢茂樹著 講談社学術文庫 2020年、第1刷