作文練習

何か書くと楽しい、かもしれない。

「語りえぬものを語る」 読書メモ(第19章、その3)

 本書(参考1)ウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。抜粋といっても私の理解できた内容に文章を崩している。本記事は19章に関する。
 以下、本文抜粋。

 

P326
【非言語的な体験が言語を触発する】
 物自体に触発されて経験が成立するように、非言語的な体験に触発されて分節化された体験あるいは分節化された世界が成立する。だが、その成立は単純ではない。鍵は、非言語的な体験が発話も触発するということにある。

 

 例えば、「痛い」という言葉は非言語的な体験に「痛み」という意味を与え、「痛みの感覚」という言語的に分節化された体験となる。

 

 子供はある体験に触発されて泣き叫ぶと、大人は「イタイ」という音声を教える。すると子供は、理解しないまま「イタイ」と言う。「痛い」という日本語は泣き叫ぶこととは異なり、次第に過去形にしたり、他に適用されたり、質問に用いられたりする。


 そうした言語使用の適切さの評価と訂正により、子供はやがて痛みに関する言語実践に参加する。それと同時に、非言語体験によって「痛い」という発話が触発される。
こうして「イタイ」という発声を触発していた非言語的体験が、いまや「痛み」という公共的に理解可能な体験となる。

 

 これに対して、「E」は公共言語としての機会が無く非言語的体験による触発というレベルにとどまる。それゆえ「E」は分節化された言語にはなりえない。

 

 さらに、非言語的体験が分節化されたならば(つまり非言語的体験でなくなったならば)、触発も因果関係として捉えられるようになる。非言語的であった痛みの感覚は分節化され特定できれば、痛みを反応の原因としてみなすことができるようになるのだ。

 

【非言語的体験と言語的世界】
 以上のことは、「痛み」だけではなく「緑」という語に対しても同様の構図が成り立つと著者は考える。非言語的体験から言語的に分節化された世界が成立してくるのである。

 

 (実は)言語化され分節化されたものは非言語的体験のごく一部であるということや、(非言語体験が)豊かだということ、さらには非言語的体験の場の存在は論証できない。それでも著者は、非言語的体験が存在し、それが言語で分節化された世界よりも豊かなものであることを確信している。

 

<読書メモ
 今回の内容は大きく三つに分けられる。
1、    ある非言語的体験が「痛い」という言語により分節化される過程
2、    ある非言語的体験が「痛い」という発話を触発することにより、触発が因果関係とみなされるようになる過程
3、    実は非言語的体験の存在は論証できないが、それでも著者は非言語的体験の方が言語的世界よりも豊かだと確信していること

 

野矢氏がカントの「物自体」を肯定しつつもその理由を述べないわけは、3によるものなのだろう>


参考1 語りえぬものを語る 野矢茂樹著 講談社学術文庫 2020年、第1刷

「語りえぬものを語る」 読書メモ(第19章、その2)

 本書(参考1)ウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。抜粋といっても私の理解できた内容に文章を崩している。本記事は19章に関する。
 以下、本文抜粋。

 

P324
【因果と触発】
非言語的な体験の場は言語の意味規定を欠いているので理解の対象にはならない。

 

 私はただその体験の場に曝され、影響を受ける。非言語的な体験が原因となって反応が引き起こされる。それは因果的に見えるが、正確には因果ではない。因果関係は二つのできごとの間に立てられる。猫がジャンプして本が崩れたとき、本が崩れる原因は猫のジャンプである。しかし、非言語的な体験の場は分節化をもたないので(非言語的な体験の場は)原因となり得ない。ゆえに著者は「因果」ではなく、カントを意識しつつ「触発」と言う。

 

 カントはわれわれが知覚し認識する現象とは別に「物自体」という存在を想定していた。物自体とはわれわれが時間・空間の形式を与え、カテゴリーによって秩序づける以前のものだ。われわれは時間・空間の形式をもちカテゴリー化されたものしか認識できない。それゆえわれわれは物自体を認識することはできない。物自体は認識を超越したものとして存在する。

 

 著者は若い頃、観念論的傾向が強かったので「認識不可能な物自体というものを想定する必要はない」と考えていた。しかし今はそうは思っていない。著者の感覚として、物自体を想定する必要があるとしている。

 

 カントは現象に対するわれわれの認識は物自体に「触発」されたものであると言う。例えば猫を見た時、わたしの視覚は猫が原因で成立している。しかしカントに従うならば、それは「因果」と捉えることはできない。因果は、物自体に意味を与え、それによって現象を構成するカテゴリ―の一つでしかない。あくまで現象における秩序なのである。従って物自体と現象を因果のカテゴリーで捉えることはできず、「触発」と言われることになる。

 

 著者はこの「触発」という構図を非言語的な体験の場に対して見てとる。非言語的な体験は私のさまざまな反応の「原因」ではありえない。非言語的な体験は、われわれの反応を因果的に引き起こすのではなく触発するのだ。

 

 

<読書メモ
 篠田英雄氏の訳によるとカントは純粋理性批判(参考2)で「触発」という言葉を幾つかの場面で使っている。その例を以下に引用する。


 まず、空間においては以下の通り。
外的直観は、対象そのものよりも前にあり、また対象の概念は、この直観においてア・プリオリに規定せられうるというが、かかる外的直観が、客観[対象]によって触発せられてこれらの客観の直接的表象即ち直観をもつことになるという主観的性質として、従ってまた外感一般の形式としてのみ、認識主観のうちに存在するからにほかならない。(参考2 P93 より引用)

 

 次に、時間においては以下の通り。
主観は、自分自身をそれ自体直観するのではなく、また自発的に自分自身を直接表象するのでもなくて、内から触発せられる仕方に従って直観するのである。
――換言すれば、主観[『私』自体]をあるがままに直観するのではなくて、この主観が自分に現れる仕方に従って直観するわけである(参考2 P117より引用)

 

 人間は物自体を直接認識することはできないが、そこに空間という形式をあてはめることによって、空間の制約内で表象可能なものを直観できるという。あるいは人間は私自体を直接認識できないが、そこに時間という形式をあてはめることによって、時間の制約内で表象可能な自分を直観できるという。
 
 もう一つ、「因果は現象を構成するカテゴリーの一つ」だと野矢氏は書いているが、これについてもカントはもう少し詳しく述べている。
 
 カントによると人間の認識には感性、悟性、理性がある。感性は表象可能なものの直観であり、まだ言語化されていない。野矢氏による私秘的体験に相当する。悟性は体験を判断することにより生じるものであり、言語化され分節化された世界がそれに相当する。最後に理性は体験できないことを判断することにより生じるものであり、神、自由、魂の永遠の世界を認識しようとすることである。

 

 ただし、感性、悟性、理性いずれにおいても人間はア・プリオリな(経験によらない)形式を持っており、それゆえ認識が可能になっているとカントはいう。感性においては空間と時間、悟性においては判断の形式がそれである。因果も悟性判断の形式の一つだ。

 

 理性における形式については私の理解がまったく進んでおらず、よく分からない。悟性形式のカテゴリーに沿って解説されてはいるのだが、理性は「アンチノミー」(一つのことにおいて真と偽の両方が証明可能なこと)に踏み入ってしまうので単純ではなさそうだ。

 

 野矢氏の仕事はカント的仕分けを行うことではないので詳しく触れていないのは当然なのだが、野矢氏がカントに触れるときの表現は必要最小限でかつ正確を期さねばならず、更にご自身の見解を加えるというかなり大変な作業だと想像する。さらっと書いてあるのだが。>

 


参考1 語りえぬものを語る 野矢茂樹著 講談社学術文庫 2020年、第1刷
参考2 純粋理性批判(上)カント著、篠田英雄訳、岩波文庫 2020年、第72刷(1961年、第1刷)

「語りえぬものを語る」 読書メモ(第19章、その1)

 本書(参考1)ウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。抜粋といっても私の理解できた内容に文章を崩している。本記事は19章に関する。
 以下、本文抜粋。

 

P320
【私的言語と私秘的体験】
 言語は原理的に公共なものなので、私にしか理解できない完全に個人仕様の言語などはありえない。このことからさらに、本質的に私秘的(プライベート)であるような体験の不可能性を結論したくなる。著者も昔そう考えていたが、実は違う。原理的に他人の理解を拒むような言語は不可能、“それゆえ“、原理的に他人の理解を拒むような体験も不可能。だが、この”それゆえ”はインチキである。


 他人の理解を拒むようなプライベートな体験「E」は、その意味が原理的に他人と自分に理解できないのであれば言語ではない。しかし、これはそのまま体験には当てはまらない。


 かつて『論理哲学論考』の思考圏にいた著者は「意味」とか「理解可能性」にしばられていたので、プライベートな体験「E」もありえないと考えていた。


 この呪縛から逃れるのは困難だが単純なことだ。ひとはしばしば理解できない力に突き動かされて動く、このことをただ呑み込めばよいのだ。しかし、いったい何を呑み込むのだろうか。


 まずは私秘的体験を肯定する観点から見直してみる。私に生じた独特な体験を「E」と名付ける。昨日生じたあれは今日生じたあれと同じ種類の体験だと私は思う。しかし他人を拒否した私秘的な場面では真偽の区別はなくなってしまう。


 このとき言えるのは、私はそう思ったというところまでであり、「私が同じ種類だと思うもの」という規定は実効的な効力を持ち得ない。

 

 「私が同じ種類だと思うもの」は雲と猫と茶碗を同じ種類だとしても差し支えがない。私が思えばそうなるのだ。かくしてこの規定は無限に放恣な姿をとることになり、それは何らかの同一性を規定しうるものではない。


 つまり、私秘的体験はいっさいの分類を拒んでいる。雲と猫と茶碗を分類するような秩序を持ちえない。それはいっさいの具象的意味を剥ぎ取られた、抽象画のような世界だと比喩できる。著者は、そのような文節化された構造を持たない体験を「場」と呼ぶ。

 

【非言語的な体験の場】
 「私秘的体験」と「非言語的体験」は同じものだ。どちらも文節化された構造を持ちえない。文節化された構造を体験に与えるのは、ただ言語(公共言語)だけなのだ。


 言葉を持たない動物は体験を分類せずに受け入れている。「エサ」とか「敵」に対する反応は文節化されていない場のパターンに応じた特有の反応なのである。例えるなら気圧配置のパターンに応じて台風の進路が定まるようなものだ。そして彼らを観察する人間がそうした場のパターンを「エサ」とか「敵」といった文節化された言葉を用いて描写するのだ。

 

 人間もまた動物であるので、われわれも文節化されない非言語的な場にさらされている。だが人間の場合にはそこに言語によって文節化された世界もまた開けている。この二重性こそ人間の特徴だと言える。

 

<読書メモ

 私は、「言語化前の私秘的体験の場を言語で再構成することが人間の特徴だ」、と読み換えた。
 梶井基次郎の小説「檸檬」では、檸檬に関する様々な感覚を言語化している。色、形、冷たさ、匂い、重さ。そして檸檬は自身の肺病から来る不吉な塊を一掃し、色褪せた画集の群を吸収し冴えかえ、ついには大爆発を想像させるに至る。すべて檸檬に関わる体験が元になっている。
 体験を言語化すると、その周辺はどうしても削り落とされてしまう。言葉で説明できないものがあるとは、その削り落とされたものが私秘的体験のまま分節化された構造を与えられないということなのだろう。
 野矢氏は更に一歩進んで、言葉にならないものに視線を向けることはとても大事なことであり、削り落とされたものを丹念に拾い集めて言葉にすることこそが人間の人間たる所以だと言っているのではないだろうか。私はそう理解したい。
 梶井は自身の体験を丁寧に言語化している。彼の作品は病魔に侵されていく自分自身を描いたものが多いのだが、客観的であり悲劇の主人公的な感じが無い。言葉によって削り落とされていく体験をあきらめずに一つ一つ拾っていく作業が、彼を最期まで人間らしくさせたのではないだろうか。>

 

参考1 語りえぬものを語る 野矢茂樹著 講談社学術文庫 2020年、第1刷

「語りえぬものを語る」 読書メモ(第18章、その2)

 本書(参考1)ウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。抜粋といっても私の理解できた内容に文章を崩している。本記事は18章の註に関する。
 以下、本文抜粋。

P310
【1 私的言語から公共言語への転回点】
 私的言語〈E〉は私的体験を記述してはいないが、「痛み」のような公共言語の言葉は感覚を記述できる。それでは〈E〉と「痛み」の違いは何か。


 痛みには特徴的な状況と特徴的な身体反応がある。他方、私的言語〈E〉はそのような状況や身体反応を除去することから成り立っていた。では、特徴的な状況や身体反応を取り戻せば私的言語〈E〉は公共言語に返り咲くのか。ここで著者はそうではないと考える。


 ウィトゲンシュタインは『哲学探求』270節で私的言語に身体反応を付加することを試みている。〈E〉に連動して血圧が上昇するこの言語を〈E1〉とする。しかしまだ〈E1〉は公共言語ではない。


 なぜなら例えば〈E1〉を体験したが血圧が上昇しなかった場合、「E1が起こったが血圧は上昇しなかった」とは書くことはできない。血圧との連動を離れると〈E1〉は〈E〉の想定に戻らねばならない。私的言語〈E〉は真偽を言えないのであるから、〈E1〉と血圧の上昇との連動には例外はない。〈E1〉が真であるのは血圧が上昇するときだけだ。〈E1〉は単に血圧上昇の予測として真偽が与えられているにすぎない。ならば、〈E1〉はなんらかの体験の記述ではなく単に「血圧が上昇する」を意味するものと言わねばならない。


 では、〈E〉が感覚記述の言葉となるには、さらに何が必要か。


 著者の考えでは「嘘」や「ふり」や「がまん」といったことが鍵になる。これらを概念化して「嘘をついている」と記述することが要求される。ここで痛みに対する「嘘」や「ふり」は、痛みはないが身体反応だけを示すことを含み、逆に「がまん」は身体反応に現れない痛みということを含んでいる。


 重要なことは、嘘やふりやがまんが、感覚や身体反応と「痛い」が完全に連動しておらずその間に切れ目が入っているということだ。


 もちろん典型的には感覚や身体反応と「痛い」は連動している。しかし例外的には切り離されうる。このことが「痛い」という語を感覚記述に用いることを可能にしているのだ。


 私的言語〈E〉が「痛み」のような感覚記述の公共言語になる転回点は、たんに「Eが起こった」と記述するだけではなく「Eのふりをする」や「Eをがまんする」といった記述にも使用されうるようになることにある。

 

P314
【2 「感覚E」という語】
 私的言語にきわめて近い「感覚E」という語について考える。


 「感覚E」はまったく新しい感覚であり、状況や身体反応との連動が認められるものの、「感覚E」を他の緒感覚から区別するような特徴的な状況や身体反応は見出されないとしよう。さて、これは私的言語なのだろうか?


 しそれが他の感覚と区別する特徴的な状況や身体反応を欠いていたとしても「感覚E」は私的言語ではないと著者は考える。


 まず、「感覚E」の想定は私的言語〈E〉の想定とは異なる。実はウィトゲンシュタインは当初、私的言語を「感覚」という言葉を用いて導入している。だがこれはウィトゲンシュタイン自身によって、感覚とは公共言語であり私だけが理解できる言語ではない、と修正される。


 著者自身もある種の「体験」を「E」と名付けるという形で私的言語を導入した。だが、それは「体験」という公共言語を用いているという理由から間違いだった。いっさいの公共言語と隔絶されたところで何ごとかに「E」と名付けることが私的言語の想定である。これに対し「感覚E」は公共言語たる「感覚」に依拠して導入されるので私的言語ではない。


 では、公共言語の「感覚」という語を用いていることがどうしてそれを私的言語の想定と決定的に異なったものにするのか、検討していこう。


 他の感覚と同様、「痛み」には典型的なケースとそうでないケースがある。金槌で指を叩くといった典型的なケースでは誰もが痛いと見なされうる特徴的な状況において痛みが生じ、(顔をしかめ、指が腫れるといった)誰が見ても痛そうに見える特徴的な身体反応が現れる。「誰でも」の構造は決定的に重要であり、この構造があるからわれわれは「痛み」を共有できる。逆に、そのような特徴的な状況や身体反応が伴わなければわれわれは「痛み」という語を学ばなかったに違いない。


 だがそれは典型的なケースおける話であり、「痛み」のすべてが特徴的な状況や身体反応を伴うわけではない。「痛み」は典型的なケースから、特徴的な状況を欠くかあるいは身体反応を伴わないような周縁的なケースに至るまでの連続的な移行をもつ。


 一般に、ある概念が使用される周縁的なケースでは、正しい概念使用は明確ではなくなってくる。恋愛などがその例である。いわば、概念とは境界のはっきりしない町のようなものであり、町外れに差しかかるとその概念使用について心細くなってくる。「感覚E」もまた、そのような町外れの語にほかならない。


 感覚Eは他の緒感覚と区別するような特徴的な状況も身体反応ももたない。感覚Eとは何かと他人に問われて明確な答えは返せないとしても、感覚Eに関する質疑は意味の分からない会話でもない。感覚概念の町外れではこのような会話があってもよい。


 だがそれは町外れだから可能なのだ。このような周縁的な言語使用は典型的な言語使用に支えられてのみ可能となる。「痛み」のようにまず典型的な場面で作られた概念が、その後で周縁的なケースに適用されるのである。


 そうした観点から見れば「感覚E」と私的言語〈E〉の違いは明らかだ。「感覚E」は公共言語の感覚概念に依拠し、あくまでもその周縁的使用として導入される。他方、私的言語〈E〉はいっさいの特徴的状況と身体反応をもたないケースこそがまさしく適用例とされる。私的言語〈E〉は公共言語の周縁に位置するものではなく、公共言語から完全に隔絶された私的孤島なのだ。


 それは、概念の成立基盤を破壊しきった土地に概念を打ち立てようとする不可能な幻想にすぎない。


<読書メモ>
 感覚Eの例えとして、「霊感」について考えてみた。
 真偽は別として、霊感を確信している人はいる。また、「嘘」、「ふり」、「がまん」といった記述も適用できる。
 しかし、霊感を確信できる人はごく一部だ。一般人は霊感を確信することができないので、それがどんな感覚なのかを知ることはできない。つまり感覚そのものは共有されない。
 身体反応についても、「霊を感じたら寒気がするよね」みたいなことは言われるが、典型的なものとして認知されているわけではない。
 特徴的な状況としては、お墓や心霊スポットと呼ばれる特定の場所と夜という時間帯が挙げられることが多いが、「金槌で指を叩いたら痛い」と比べたら、典型的な例とする程度に決定的ではない。
 「霊感」については周縁例の方が一般的だ。と言うよりはむしろ「霊感」には典型例がないのだ。
 ではなぜ「霊感」が共通言語になり得るのか。それは、永遠の魂や神仏といった霊的なものの概念が広く共有されているからだと思われる。「霊感」に限らず、文化的な概念が感覚を形成することはかなり多いのではないだろうか。
 「恋愛」もその類だと思う。ただし恋愛については感覚を二人で共有する場合が多いので、「霊感」と比べたら町の中心は賑わっていそうだ。


参考1 語りえぬものを語る 野矢茂樹著 講談社学術文庫 2020年、第1刷

「語りえぬものを語る」 読書メモ(第18章、その1)

 本書(参考1)ウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。抜粋といっても私の理解できた内容に文章を崩している。本記事は18章に関する。

 以下、本文抜粋。

 

P300

【私的言語】

 私にしか理解できない言語は「私的言語」と呼ばれるが、本章で筆者は「私的言語」を否定する。

 

 仮に私的言語を可能だと主張する人がいたとして、その人にはある種独特な「E」という体験が繰り返し起こるとする。「E」は他人には分からないのでそれは私的言語だという主張になる。

 

 あるいはその人は「痛み」という日本語も同様に私的言語だと言うかもしれない。「痛み」は他人には分かりようもないからだ。

 

 かくして体験を記述した言葉はすべて私的言語ということになる。更に「すべては自分の体験に基づいて理解されるしかない」という前提が加われば、あらゆる言葉は私的言語だということになる。一般に唯我論傾向をもつ人はこの主張をする傾向にある。

 

P301

ウィトゲンシュタインの私的言語批判】

 ウィトゲンシュタインも私的言語を否定し、クリプキがその解釈を提示した。しかしここでクリプキと著者の観点は異なることを述べておく。

 

 クリプキウィトゲンシュタインの私的言語批判を規則のパラドクスからの帰結であるとし「プラスとクワスを区別するような私に関する事実など存在しない」と結論する。

 

 プラスとクワスを区分するものは共同体のもとにある。プラスまたはクワスを決定するには共同体の一致が必要であり私一人では成り立たない。これがクリプキの「共同体見解」である。

 

 他方、著者が規則のパラドクスから引き出す教訓は共同体見解ではない。著者は規則のパラドクスの核心が言語実践を支える「語られない自然」の発見にあると見ている。プラスとクワスを分かつものは自然の反応傾向といった自然(ウィトゲンシュタインの言い方では「自然誌的事実」)の内にしかない。

 

 しかし、われわれが68+57を125と答え、5と答えないことは「自然誌的事実」ではなく、規範に従って125と答えるべきとしていると語られねばならない。著者はこれを前回「語られない自然」と呼んだ。これが『論理哲学論考』で見逃された『哲学探究』の新しい地平である。

 

 著者はここで、ウィトゲンシュタインが次に取り掛からねばならなかった問題が「語られない自然」と「語ること」の関係だったと推論する。

 

 自然誌的な秩序に服し自然な反応に身を任せるだけなら私一人で十分だろう。だが言語実践において社会や制度は本質であるに違いない。ウィトゲンシュタインは規則のパラドクスにおいて言語実践を支える自然を見出したが、(個人から社会に踏み出すために)私一人が自然誌的秩序に服するとはどういったことかを考えて私的言語という思考実験に取り掛かったのではないか。

 

<読書メモ>

 ここで著者の「相貌」を改めて読み直してみると「相貌」にとって個人的な人生観は重要な要素になっている。おそらく「相貌」は自然誌的秩序に加わるべき軸であり、時間の経過を加味して言語実践を立体的に浮かび上がらせる。「相貌」の要素である個人の人生観は私的体験により形成されるが、それが真偽の批判に晒されることのない私的言語になってしまうと言語実践から遠ざかるのだろう。

            

P304

【私的言語〈E〉の想定】

 私的言語の不可能性を示すため、私的言語〈E〉を規定しよう。

 例えば、特徴的な外的な条件やそれによって生じる身体反応も生じない経験が私以外の誰にも知られず起き、それを「E」と名付ける。「E」は日記に書くことができ、今「E」が起きていると他人に伝えることはできるが、他人には説明できない。これを「私的言語〈E〉」と呼ぶ。

 

P305

【正しいことを正しいと思うこと】

 一見すると、私は「E」の使用規則に従って「E」を定めている。しかしこれは「私的に」規則に従っているということだ。つまり私は「規則に従っていると思う」とこと「本当に規則に従っている」ことを区別できない。

 

 私的言語ではない「浅葱色」を例に挙げると、私が日本語規則に従ってこの色を浅葱色だと判断した場合であっても、色辞典などを調べることによって訂正する可能性がある。しかし、「E」の場合はそれを訂正する他人も公共な道具も存在しない。従って「規則に従っていると思う」ことと「本当に規則に従っている」ことの区別はつかないのである。

 

 区別がつかないとどうなるのか。孤島で一人生きるロビンソンが「魚は食べてはいけない」という規則を決めていると想定しよう。ところが彼はアイナメを釣り上げて食べたとする。第三者はロビンソンが規則を破ったと思うかもしれないが、ロビンソン自身 が規則に従っていると思っているなら誰も文句は言えない。ロビンソンはアイナメがタコの化けたものだと思っているのかもしれない。つまり規則は骨抜きになるのだ。

 

P307

【「E」は何も記述していない】

 私が日記に「E」と書きつけたとしても、それは何も記述していない。もし「E」が体験記述の言葉ならばそこには「真偽」があることになる。ところが「E」には真偽がない。

 

 公共言語の場合、自然な発話であっても勘違いや知識不足のために後から偽であることが判明することがある。しかし私的言語の場合自然な発話は自動的に真となり、不自然な発話は自動的に偽となる。そこには誤解を言い立てる他者の視点は存在しない。つまり真偽は意味を為さない。真偽がないならば公共言語における実体はないし、記述とは言えない。

 

 「E」という記載からわかることは「このとき私は自然に「E」と反応したんだな」ということだけであり、そのときどういう体験が起こったのかを読み取ることはできない。私的言語が他者を完全に排除してしまったことの帰結である。私にしか理解できない言葉は私にも理解できないのである。

 

 

<読書メモ>

 形而上の言語は誰にも体験できないが、多くの人がその概念を共有している。それらは体験できないし、仮に体験できたとしてもそれは極めて個人的な体験である。他者による検証は難しく、真偽の判定も同様に難しい。かといって他者を排除しているわけではない。概念だけは共有されているからだ。

 

 形而上の言語はまるで何かの境界線上にあるみたいだ。私的言語領域を注意深く排除することで形而上の言語を浮かび上がらせることは可能なのだろうか。

 

 

参考1 語りえぬものを語る 野矢茂樹著 講談社学術文庫 2020年、第1刷

「語りえぬものを語る」 読書メモ(第17章、その2)

 本書(参考1)ウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。抜粋といっても私の理解できた内容に文章を崩している。本記事は17章の註に関する。
 以下、本文抜粋。

 

P292
【2 言語習得と条件付け】
 言語を教える過程は訓練と同じだ。言語学習がパブロフの犬と違うところは、教えられていなかった新しい文を作り、また新しい文を理解するという特徴にある。この特徴は言語の「創造性」と呼ばれる。


 著者自身の中でも、言語習得はたんなる条件付けだという考えと(「創造性」という観点から)そうではないという二つの考えはいまだに衝突している。


 しかしここでは言語習得は条件付けと同じだという考え方を進めていく。そのためには「創造性」の二つのことを区別しておく必要がある。


 一つは、同一の言語の中で新しい文が作られるということ。もう一つは言語そのものが新しいものに改変されうるということだ。

 

 前者は「百匹の狸が銀杏並木を駆け抜けた」といった内容が新しい文だ。
 後者は「夜の底が白くなった」という文学的表現のもつ新しさだ。一般的な日本語では夜は底をもたない。これは文学的表現に限らず新しいメタファー一般に言える。新しいメタファーが流通するようになれば、それは日本語の枠そのものを拡張することになる。

 

 後者の創造性は教えられうるものではないが、前者の創造性は習得可能である。前者を「習得可能な創造性」と呼ぶことにする。


 「習得可能な創造性」は条件付けでも身につく。例えば数字の羅列で大きな数を表現する場合、例えそれが人類史上初めて書き出された数であっても「以下同様」の範囲に収まっている。


 言語習得も「以下同様」の範囲であり、「以下同様」とはわれわれの自然な反応傾向を利用した促しである。つまり「以下同様」とは条件付けが完了したということである。


 「条件付けでは、われわれの言語表現がこんなに多様であることを説明できないのでは」という反論に対しては、われわれは語り方を身につけその語り方を使って自由な内容を語るのだと答えたい。

 

 さてここで「言語を教える過程は条件付けによる訓練とまったく同じなのだ」と言ってみる。まったく同じと言い切ることは何か大事なものを落としていると筆者は感じるが、まだ筆者自身それが何なのかは分かっていないという。しかし少なくとも言語習得には「以下同様」が必要であることと、「以下同様」はわれわれの自然な反応傾向を利用してのみ有効であることは主張できる。

 

P296 
【3 規範的力】
 われわれがなんらかの規範に従った行動をとるときには“つねに”規範的な力が働いていると考えてしまうかもしれない。例えば線に従って歩くときはつねに線を注視しなければならない。しかし言語を使うときは必ずしもつねに規範を意識しているわけではない。

 ここでの規範的な力とは、まちがったり迷ったりしたときに現れる分岐ポイントの衝立のようなものだと言える。


 更には規範とは、行動する者の観点だけではなく、評価の観点という二重の観点が含まれる。

 


<読書メモ>
 言語の習得が完了したということは、新しい場面で「以下同様」の範疇に入る言語を使用できる能力を得たことだと言える。そこに至るまではつねに規範を意識しなければならならず、同時に評価の観点がつきまとう。
 習得が完了し、評価の観点を意識しなくても良くなったときにはじめて習得不可能な新しいメタファーの創造が現れ得るということだろうか。

 


参考1 語りえぬものを語る 野矢茂樹著 講談社学術文庫 2020年、第1刷

「語りえぬものを語る」 読書メモ(第17章、その1)

 本書(参考1)ウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。抜粋といっても私の理解できた内容に文章を崩している。本記事は17章に関する。
 以下、本文抜粋。

 

P281
【「したいこと」と「すべきこと」】
 緑色を見て「緑」と呼ぶべきだから呼んでいるのか、たんに「緑」と呼びたくなったから呼ぶのはとどこが違うのか。


 日本語を使うことは日本語の規則に従い語彙を適切に組み合わせて用いるという規範的な営みである。自分が使いたいように言葉を使っても誰にも理解されない。しかしここには錯綜した事情がある。


 キュウリを手にして「緑」だと言うときは、色に注目して「緑」呼びたくなっただけである。そこに「そうすべき」に対応するものはない。あるいは条件反射的に緑という言葉が出てきたとすれば、呼びたくさえなっていないということになる。

 

【「以下同様」における自然と規範】
 言葉を学ぶ過程は整然としたものではない。さまざまな具体例とともに言葉の使い方を教えられ、新しい事例にその言葉を適用していく。ここには「以下同様」の成立がカギとなる。


 ここで、グルー的解釈を行う子供は「以下同様」の概念が異なった働き方をする。その子供は、キュウリを緑と教えられた後にエメラルドを緑ではないと言い、快晴の空を緑だと言う。


 しかしわれわれはエメラルドを緑だとする反応しか取ることができない。ごく自然にそう思う。ごく自然にそう思うということは、そう呼びたくなったということだ。


 つまり「以下同様」とは自然の反応に任せることだが、「あとはやりたいようになりなさい」ではなく「以下、これと同様にやるべし」と言いたいのだ。

 

【誤解の訂正】
 鳥を教わる子供は、いかにも鳥らしい鳥を提示されて「鳥」という語が適用されるものとされないものの区別を教わり、以下同様となる。しかし子供はムササビを見て鳥と言い、ペンギンを見て鳥ではないと言うかもしれない。


 ただしこれはグルー的、クワス的反応ではない。ムササビを鳥だという子供はわれわれと異なる反応傾向を持っているわけではない。それはわれわれと同じ自然な反応、「自然な誤解」だ。


 誤解はすべて自然な誤解のことだと言うべきだ。グルー的、クワス的反応は誤解ではなく「われわれとはまったく異なる別の正解」だ。ある反応を誤解と評価し、訂正できるためには自然な反応傾向を共有していなければならない。同じ自然のもとにいる者のみが誤解しうるのだ。


 ダチョウを鳥だと教えられた子供は次にエミューを見てダチョウと誤解するだろう。更にクイドリを見た子供はこれがダチョウかエミューかはたまた鳥なのかを迷うかもしれない。


 ここには言語を教えることの一般的構造が示されている。言語使用は規範的だがその教育は相手の自然な反応傾向を利用して為される。しかしそこには誤解の余地があり、誤解が生じたときに反応傾向を修正する。そしてそれは終わりなく繰り返される。

 

<読書メモ:
 常に誤解を修正し続けるという点では言語の学習と科学の進歩は非常に似ている。たとえば、「科学万能主義に異を唱える」とか「科学では解明できないことがある」という言い方は、「言葉がすべてではない」とか「言葉では表現できないことがある」という言い方に近いものがある。

 言語も科学もわれわれの反応傾向の基盤の上に成立しているの規範的なものだとすると、どちらも常に誤解と修正の運命をまぬがれない。
 言葉と科学は世の中を動かす強大な力を持っている。それ故に絶対的な真理が隠れていると思いたい。しかしそれは願望だ。願望を願望だと直視するのは相当に難しい。>

 

【規範性の意味】
 以下同様はたんに「あとはやりたいようにやりなさい」だけではなく「適切であれば評価され、不適切ならば訂正される」ことを含む。これが規範的意味である。そして言葉を使われるときは自然な反応傾向に従って使われるのだが、それは適切/不適切という評価が下されうることを了解している。反応に迷ったり不適切であったりした場合、説明を受けることになる。


 もしその人の使う言葉から誤解や不適切さが消失したとすれば、そこに規範は不要となる。規範性の実質は誤解や不適切があるからこそ確保される。そして言語実践の規範性は訂正の場面に根差している。

 

【語られない自然】
 独り言で木々を「緑」とつぶやいたとして、それもまた評価と訂正の可能性に開かれている限り規範的な言語実践だ。


 「自然な反応に従っている」ということは「規範に従っている」という描写と相容れない。自然な反応に従うということは、喉が渇いたから水を飲むみたいなことだ。そこに「そうすべき」という意味はない。


 独り言を自然な反応として描写したくなるのは、言語実践全体の脈絡から切り離して捉えるからだ。迷いのないなめらかな言語使用の場面を切り取り、そこだけを見るならば、ただ自然な反応に従っているだけでしかない。だが、私の独り言はわれわれ言語実践全体の中に埋め込まれている。そうでなければつぶやきはただの無意味な発声にすぎない。


 著者はこれまで「言語使用のほとんどの場面でわれわれはたんに自然な反応に従っている」と語ってきたが、それはここで撤回される。確かにわれわれの言語実践は自然な反応傾向に支えられている。しかし言語実践を規範的なものとして語る以上、それを自然的なものとして語りだすことは許されない。語ることを、語られない自然が支えているのだ。

 

<読書メモ: この後半部分は珍しくセンチメンタルだ。それだけに著者の熱量を感じる。>

 

 

参考1 語りえぬものを語る 野矢茂樹著 講談社学術文庫 2020年、第1刷