作文練習

何か書くと楽しい、かもしれない。

快と不快が基準になっている人達

 快と不快が絶対的に自分自身の基準となっている人達がいる。不快感を覚えたとたんにそれまでの言葉を反故にする人達だ。自分の感覚は信じるが、言葉を信じていない人達だとも言える。そういう人達は一見して分かり難い。しかし今後どんどん増えていくだろう。

 

 言葉を信じていない人が信じるものは、自分自身の感覚だ。信条や集団の目的など自分の外の基準は言葉によって作られている。外の基準があれば、仮に自分を傷つけるものがあったとしても、痛みを伴いながらもそれを自分の中に取り込んで成長することが可能かもしれない。


 しかし自分の感覚が基準の場合、自分を傷つけるものはすべて拒否しなくてはならない。外部からの刺激を快と不快で仕分ける以上、そこからの発展はない。そうなると、社会を生きることは常に不安に晒されることに等しくなる。


 その不安を緩和するには、自分も他人も傷つけない優しい仲間関係が必要だ。これはネットの中でもよい。うわべとノリだけの会話を交わし、本当の自分を偽り、孤独を感じつつも離れられない仲間関係は、それでも自分自身の存在だけは証明してくれる。たとえ部外者から見て脆くて軽い人間関係だとしても、当人にとっては生死を分ける程に重要なものになる。


 その仲間さえ持てない場合は自傷や他傷に至ることがある。自分の存在を証明するものは、自虐による痛みか、あるいは他者が自分に対して行う非難による不快な感覚だけになる。これは不幸だ。

 

 キェルケゴールはその著書「死に至る病」において、自分自身を措定するものが自分であるか自分以外の何かであるかという二択を示し、自分以外の何かである場合に絶望の二形態を提示した。

 

 つまり自分を措定するものが自分の感覚である場合、自分以外の何かは関係ないので、キェルケゴールの言う絶望は理解できない。「死に至る病」に書いてある言葉は分かるかもしれないが、内容を理解することはおそらくあり得ない。

 

 生きるためにも読書は必要だ。