作文練習

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哲学入門(バートランド・ラッセル著)7章 メモ(6)、7章完了

今日のメモで7章終了です。
哲学入門(参考1)の7章、P98の10行目からのメモです。

 

<要約1>
 演繹は新たな知識を与えることがある。これについて例を挙げて説明する。「BとJの2人、RとSの2人を合せるとBとJとRとSの4人になる」。これは新しい知識である。なぜなら「BとJとRとSがいる」という個別事例は「2人と2人を合わせて4人である」ということを説明しないし、2+2=4という一般原理は「BとJとRとSがいる」という個別事例を説明しないからである。(参考1 P98、10行~P99、2行)
<読書メモ1>
 これは分かり易い。前回、純粋数学という言葉が出てきたが、純粋数学は新しい知識を与える。しかもこれはアプリオリな知識だ。ここから純粋数学で得られた知識は綜合的判断(Synthetic judgment)として新しく追加されたものであることが言える。
 ここで改めて生得的(innate)とアプリオリの違いが明確に理解できる。赤ちゃんが2+2=4という知識を持って生まれてくるわけではないことと、2+2=4というアプリオリな知識を得るためには経験が必要であること、それでいてこれは演繹であるということがポイントだ。

 

<要約2>
「すべての人は死ぬ、ソクラテスは人である、よってソクラテスは死ぬ」という論理学の本に出てくる演繹の例は適切ではない。
 我々はいろいろな人が死んだことを知っている。そこから直接「ソクラテスは死ぬ蓋然性が高い」ことを帰納的に類推すれば良い。従って「すべての人は死ぬ」という経験的一般化(をあたかも真理のように扱って、)を経由して演繹的に導く必要はない。(参考1 P99、3行~16行)
<読書メモ2>
 これまた明快だ。このソクラテスの例は知っていたが、ロジカルに否定出来るとは思ってもみなかった。

 

<要約3>
 「2+2=4」のような一般原理を論じるには演繹が正しく、「すべての人は死ぬ」のような経験的一般化を論じるには帰納法が理論的に好ましい。
「経験的一般化はつねにその個別事例よりも不確かだから、帰納によるほうが結論の正しさについて、より大きな保障が得られるのである。」(参考1 P100、1~5行、斜字は直接引用した)
<読書メモ3>
 6章に『科学は作業仮設として、「一般的規則のうち、例外がありうる規則は例外のない規則に置きかえることができる」と仮定することを習慣としている。』とある。(参考1 P79、4~6行)つまり、科学は帰納法が理論的に正しい場合が多い。観測結果から一般的規則を導く場合、常に観測結果よりも一般的規則(として仮定したもの)の方が不確かだ。例外が見つかって別の規則に置きかわる可能性を常に含んでいるからだ。
 よく、「科学万能のこの世の中で~」とか「科学で証明できないことがある」みたいな常套句があるが、そんなのは当たり前だ。科学という体系が万能ではないことや、証明できないことがあるという前提を含む体系だからである。
 中世までは哲学も宗教と同じく完全なものを前提とした理論体系だったが、ロック、ヒューム、カント以後は完全なるものを考え出す形式や完全なるものいかにして可能か、という体系に大きく舵を切ったのではないだろうか。詳しい先生に聞いてみたい。

 

<要約4>
 論理学、純粋数学倫理学の根本命題の知識がどうして可能か?個別事例すべてを検討していないのに一般命題をどうやって知ることができるのか?カントはこれらの問を立てた。(P100、6~11行)
<読書メモ4>
 これで7章が終わっていよいよ次章でカントが登場します。激難(げきむず)です。

 


参考1 哲学入門 バートランド・ラッセル著、高村夏輝訳、ちくま学芸文庫、第二十刷
参考2 http://www.gutenberg.org/files/5827/5827-h/5827-h.htm