作文練習

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哲学入門(バートランド・ラッセル著)10章 メモ(4)

ラッセルの哲学入門(参考1)10章の抜粋と読書メモの続きです。


P131、1行~16行
 「2+2=4」は普遍のみを扱っている。よって、普遍間の関係を知覚できる人なら理解できる。
 「普遍間の関係を知覚する能力、算術や論理学のような一般的でアプリオリな命題を知る能力が私たちにはある」ということは私たちの知識を反省すればわかる事実である。
 いまや私たち(読者)は、アプリオリな知識が経験よりも先にあるということは誤りだと分かる。経験できるいかなる事実も経験とは独立に知ることはできない。「二つのものと二つのものを合わせると四つのものになる」ことを私たちはアプリオリに知ることができるが、BとJの二人とRとSの二人がいる時、「B、J、R、Sで四人になる」ことをアプリオリに知ることはない。「B、J、R、Sで四人になる」ことを知るには「B、J、R、S」がいるという経験が必要だからだ。
 一般命題がアプリオリだとしても現実の個物に適用するにはつねに経験が伴う。つまり経験的な要素が必要となる。
<読書メモ>
 ここでアプリオリな知識とは普遍間の関係を知覚することだということが一旦決着する。

 

P132、1行~P133、4行
「すべての人は死ぬ」という経験的一般化はアプリオリな命題ではない。しかし、経験的一般化も「人」と「死ぬべきもの」という関係を理解すればその意味は理解できる。よって経験的一般化とアプリオリな命題の違いは意味のレベルではなく、証拠の本質にある。
経験的一般化の場合、証拠は個別事例である。一定年齢以上生きた人の例が無いので「すべて人は死ぬ」ことが信じられているのであって、「人」と「死ぬべきもの」という普遍が(アプリオリに)結びついているからではない。もし生理学が「すべての人が死ぬ」ことを証明したとすれば個別事例の証拠は不要になるが、それは単により広い一般化の下に組み込まれたにすぎない。より広い一般化も同様に(違う種類の)より広い個別事例を証拠としただけである。
 科学の進歩も同様に科学的一般化の帰納的根拠を絶えず広げていくことだ。これによって確実さの度合いは大きくなっても確実性の種類は変わらない。つまり科学は根拠を個別事例から得ており論理学や算術の命題のように普遍間のアプリオリな結びつきからではない。
<読書メモ>
 これが科学だ。これが分からないとおかしな事になる。ある人が実験で個別事例を集めて論文を書いたとする。別の人や当人でさえそれを検証しようとして上手く行かなかったとしても、そこには隠れた条件(個別事例)があり、最初の論文では想定していなかった別の一般化があるにすぎない。科学はその隠れた条件を見つけ出し、別のより広い一般化を行う行為にすぎない。そうやって科学は発展してきた。
 従って、ある人の論文の再現性が無かったとしても、犯罪者扱いされて死人まで出る騒ぎになることなど科学の世界ではあり得ない。それは科学の名を借りた権力闘争であり、仮にも科学者や科学評論家を自認する人であるならば少なくともその権力闘争に加担してはいけないはずだったのだ。

 


参考1 哲学入門 バートランド・ラッセル著、高村夏輝訳、ちくま学芸文庫、2018年、第二十刷
参考2 http://www.gutenberg.org/files/5827/5827-h/5827-h.htm