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哲学入門(バートランド・ラッセル著)7章 メモ(2)

哲学入門(参考1)のP91の9行目からメモを続けます。

 

<要約>

哲学史の論争の一つに「経験論者(empiricists)」と「合理論者(rationalists)」の論争がある。(参考1 P91 9~14行)
  経験論者(イギリス)
   1632~1704年 ジョン・ロック 
   1685~1753年 バークリー
   1711~1776年 ヒューム
  合理論者(ヨーロッパ大陸
   1596~1650年 デカルト
   1646~1716年 ライプニッツ
  おまけ(ドイツ)
   1724~1804年 カント

 合理論者は経験によって知られることに加え、経験からは独立した「生得観念(innate ideas)」や「生得原理(innate principles)」があると言う。
 ラッセルの判断は、最も重要な論点については合理論者の勝ちである。理由は、「論理的原理は経験によって証明されない。何故ならこの原理はいかなる証明にも前提されるから。」(参考1 P91 15行~P92 4行)

 他方、経験から論理的に独立した知識(一般法則)もまた経験を原因とする。一般法則を意識するのは個別事例の経験である。これを子供が生まれながらに携えていることはないことから、(ラッセル言うには)「生得原理」よりも「ア・プリオリ(a priori)」の方が問題が少ない。(参考1 P92 5~12行)

 

<参考>
ア・プリオリ(a priori)についてのカントの記述を純粋理性批判から抜粋する。
「経験にかかわりない認識、それどころか一切の感覚的印象にすらかかわりのないような認識が実際に存在するのかという問題は、少なくとももっと立ち入った研究を必要とし、一見して直ちに解決できるものではない。かかる認識は、ア・プリオリな認識と呼ばれて、経験的認識から区別せられる。」(参考3 P58より引用)
ア・プリオリな認識というときには、個々の経験にかかわりのない認識というのではなくて、一切の経験に絶対にかかわりなく成立する認識を意味する」(参考3 P59より引用)

 

<読書メモ>
 ラッセルはア・プリオリな“知識”という言葉を使っているが、カントはア・プリオリな“認識”あるいはア・プリオリな“直観の形式”という言葉を使っており知識とは言わない。
 ラッセルは得られたもの、得られて次に使うためのものとしての知識を重要視しているが、カントはそれがどうやって可能かということだけを論じている。同じア・プリオリという言葉が使われていてもその説明の目的とするところはラッセルとカントで異なるということに注意して読み進めたい。

 

参考1 哲学入門 バートランド・ラッセル著、高村夏輝訳、ちくま学芸文庫、第二十刷
参考2 http://www.gutenberg.org/files/5827/5827-h/5827-h.htm
参考3 純粋理性批判(上) カント著、篠田英雄訳、岩波文庫、第72刷