作文練習

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哲学入門(バートランド・ラッセル著)7章 メモ(4)

もはやブログ記事とは呼べない垂れ流しメモです。
哲学入門(参考1)の7章、P94の9行目から始めます。


<要約1>
 論理的知識以外のアプリオリな知識のうち最も重要なのは倫理的価値に関する知識である。それは、役立つかどうかではなく、それ自体が望ましいかどうかを判断する知識である。(仮に)役立つことから出発したとしても、その目的は(更にその奥の)目的を追求し、最後はそれ自体として「価値ある目的」に行きつく。(逆に)役立つという判断はそれ自体価値があるものに関する判断に依存する。
(参考1 P94、9行~P95、1行)
<読書メモ1>
 カントが「目的の国」(参考4 P113)として説明したところの「目的」がついにここで登場する。カントの言う目的は価値があるものだとラッセルは言う。ある人も別のところで言っていたが、カントの「目的」は「価値」と読み替えても成立しそうだ。さすが哲学入門。
<参考>
 以下、カントの目的と手段に関する話をカントの道徳形而上学原論から抜粋する。
『「君自身の人格ならびに他のすべての人の人格に例外なく存するところの人間性を、いつでもまたいかなる場合にも同時に目的として使用し決して単なる手段として使用してはならない」(参考4 P103から引用)
<読書メモ1-2>
 上の引用はカントの有名な言葉で、私も好きな言葉だ。人にはそれ自体価値がある。例えば、人の親が「あなたのお子さんはあなたにとって何の役に立つのか」と質問されれば、多くの親は腹を立てるだろう。親にとって子供は存在するだけで良いのだ。
人を手段としてではなく目的として見るとはそういうことだろう。ラッセルの言う「目的」の対象は人以外も含むが、私はそのように理解している。

 

<要約2>
 幸福は悲惨よりも望ましいという判断は、アプリオリな判断を含まねばならない。しかしアプリオリな判断は経験をきっかけに生じたものでもある。従って、幸福と悲惨があるという事実に対し、幸福が悲惨よりも望ましいという結論については正誤を証明できない。言い換えると倫理学ではアプリオリな判断についての正誤は証明できないことが確立されねばならない。(参考1 P95、2~14行)
<読書メモ2>
 んん?倫理学は経験論じゃなくちゃいけないの?どういうこと?だから倫理学は分派が際限なく出てくるのかも、なんて想像したりして。宗教も宗派が増える運命にあるから似た様なものか。証明できない理論体系を抱える思想の宿命かもね。
 このへんから8章のカント哲学に対する反論の伏線が張られ始める。しばらくはラッセルが因果関係をどう扱うかを注意深く拾っていきたい。

 

参考1 哲学入門 バートランド・ラッセル著、高村夏輝訳、ちくま学芸文庫、第二十刷
参考2 http://www.gutenberg.org/files/5827/5827-h/5827-h.htm
参考3 純粋理性批判(上) カント著、篠田英雄訳、岩波文庫、第72刷
参考4 道徳形而上学原論 カント著、篠田英雄訳、岩波文庫、第75刷