作文練習

何か書くと楽しい、かもしれない。

哲学入門(バートランド・ラッセル著)7章 メモ(3)

 こんな遅読じゃ間に合わない!と嘆いても仕方がないので続けます。
哲学入門(参考1)の7章、P92の13行目からのメモです。


<要約>
 知識はすべて経験をきっかけとして生じるが、アプリオリな知識もある。(以下にアプリオリな知識を定義する)『知識のうち、「ある経験のために信じるようになるのだが、証明するには経験では不十分であり、また経験からの論証は不要なもの、それに気付きさえすれば正しいことがわかるもの」』のことである。(参考1 P92、13行~P93、1行)

<読書メモ>
 ここで「アプリオリな知識」の定義が述べられている。2+2=4みたいなことがあてはまりそうだ。

 

<要約>
 『「経験の助けを得ないかぎり、何かが存在すると知ることはできない。つまり、直接に経験していないものが存在することを証明しようとすれば、前提のなかに自分が直接経験したものをいくつか含めなければならない」』。この経験論者の主張は正しい。
例えば中国の皇帝が存在したという信念は文献他のセンスデータという証言からなる。よって、「何が存在しなければならないか」という考察をすべて演繹できるという合理論者の主張は間違いである。(参考1 P93、2~9行)

<読書メモ>
 存在しなければならないすべてのことは演繹できるという主張は、本当にデカルトライプニッツが言っていることなのだろうか。極端すぎる印象を受ける。

 

<要約>
 存在するものについてアプリオリに得られる知識は、いずれも仮定的だ。
「Pが真であり、またPがQを含意するならば、Qは真である」
アプリオリな原理にできることとその範囲は厳しく制限される。存在するという知識は経験に依存する。証明によって存在が知られる時は経験とアプリオリな原理の両方が必要となる。何かが存在することを主張する知識は「経験的知識」である。(アプリオリな知識とは)存在可能なものをアプリオリに知ることによって得られるが、それは実際に存在することを教えてはくれない。(参考1 P93、9行~P94、8行)

<読書メモ>
 アプリオリな知識は中国の皇帝が存在したことを主張するには十分だが、実際存在したことを教えてはくれない、と例えることができる。ラッセルの言うアプリオリな知識とは、本書第5章で述べられた「記述されたものによる知識」を含む。

 アプリオリという概念は経験に先立つ(先経験的)という意味だが、生まれながらに持っている(生得的、innate)ということとは区別される。アプリオリという概念が本書やカント哲学の基礎になっているという気配がする。しかし、いまいち理解ができない。
 なお、「Pが真であり、またPがQを含意するならば、Qは真である」は、カントの判断の分類における関係の仮言的判断および様態の必然的判断に分類される(参考3 P143~144)。


参考1 哲学入門 バートランド・ラッセル著、高村夏輝訳、ちくま学芸文庫、第二十刷
参考2 http://www.gutenberg.org/files/5827/5827-h/5827-h.htm
参考3 純粋理性批判(上) カント著、篠田英雄訳、岩波文庫、第72刷