作文練習

何か書くと楽しい、かもしれない。

自分が決める価値 

 昨日(3月28日)のブログ「価値は外部が決める」で自分では自分の価値が決められないと書いたが、またも前言を撤回したい。自分で決めることのできる価値があった。カントの言う道徳的価値である。

 

 難しいので私の手に余るのだが、説明してみたい。

 

 道徳的価値は義務を果たそうとする意欲によってのみ成立する。意図は含まないし、条件(カントは傾向と表現している)や結果にも左右されないものだ。

 

 3月23日のブログ「献身の人」で、必ず他人に「〇〇すべきだ」と正論を説く面倒くさい献身の人の話をしたので、この献身の人における道徳的価値を説明してみる。

 

 もしもこの彼がその正論をどんな相手でも同じように説き、相手のため世の中のためではなく自らの意欲にのみ従って説き、正論を述べることで自らの身に大変なことが起きようとも説き、しかもそれが彼の幸福につながり、かといって誰に理解されることを欲するでもなく、彼の意欲(カントの言う格律)が普遍的法則になるべきことを彼自身もまた欲し得るのであれば、そこには道徳的価値があるという。

 

 だから「俺はこうなのだ!」と叫ぶ頑固親父の言うことすべてが道徳的価値になるというわけではない。理性的な人に限る話だ。理性的というからには無制限の善がなくてはならない。こうやったら善に見えるかな、みたいな気持ちがあると至極の悪になり兼ねないらしい。どこまでも厳しい話だ。

 

 書いてて「無理じゃね?」って思ったけど、カント先生は「こういう人生の無理ゲーを考えてしまうのが人間なのだよ。」と言っているような気がする。

 

(道徳形而上学原論、カント著、篠田英雄訳、岩波文庫、第75刷、5~50頁のあちこちから引用)