作文練習

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死に至る病を読む(7)

 キェルケゴール死に至る病の第一章を4ページだけ読むシリーズです。いよいよ絶望おじさんことキェルケゴールが絶望を語り始めます。

 当ブログ記事「死に至る病を読む」の1~6では自己は自己自身に関係するものだという事が書かれてきました。ここからは、その関係は自分が決めたものか、そうではないのかということをベースに絶望が説明されます。


まずは岩波訳から。
そこからして本来的な絶望に二つの形態の存しうることが帰結してくる。もし人間の自己が自分で自己を措定したのであれば、その場合にはただ絶望の一つの形態、すなわち絶望して自己自身であろうと欲せず自己自身から脱れ出ようと欲するという形態についてのみ語りうるであろう。--絶望して自己自身であろうと欲する形態などは問題になりえないはずである。」(参考1 P23より引用)

 

Hence it is that there can be two forms of despair properly so called.
(拙訳)したがって、適切にそう呼ばれるような絶望の2つの形式があり得ます。
(解説)2つのform(形式)とは、絶望に気付いて自己自身から逃れようとする絶望と、絶望に気付いて自己自身になろうとする絶望のことです。


If the human self had constituted itself, there could be a question only of one form, that of not willing to be one’s own self, of willing to get rid of oneself, but there would be no question of despairingly willing to be oneself.
(拙訳)もしも人間の自己が自分自身を構成(措定)するならば、自己自身になろうとしない形式、(言い換えれば)自己自身を除外する(逃れる)形式だけがあります。しかし、(もしも人間の自己が自分自身を構成するならば)絶望的に自己自身になろうとする形式はありません。
(解説)キェルケゴールは自己自身を措定するものは自分ではないという立場から絶望を解説していきます。
 その前に、まずは自己自身を措定するのが自分だとしたら(本当はあり得ないけど)、という仮定に立って絶望の形態を説明しています。
 狭い範囲に限定するならば、自分が自己自身を措定することに似た状態はあるでしょう。例として禁煙の挫折を挙げてみます。自分で禁煙しようと心に決めた(措定した)のに挫折してタバコを吸ってしまった(絶望した)という場合は「禁煙しようと自分が措定した自己自身」から逃げることになります。それだけのことです。自分に隠れて自分がタバコを吸うという、2番目の絶望の形式はあり得ないのです。

 

続く。

 

参考1 死に至る病キェルケゴール著、斎藤信治訳、岩波文庫、第108刷
参考2 https://antilogicalism.com/wpcontent/uploads/2017/07/thesicknessuntodeath.pdf