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哲学入門(バートランド・ラッセル著)11章 メモ(7)

 ラッセルの哲学入門(参考1)11章の、抜粋と読書メモの続きです。抜粋の()は私が補足しました。

 

P141、9行~P142、6行
 直観的判断の一種に記憶の判断がある。(本段落では記憶はイメージではないことを説明する)。
 「記憶は記憶の対象のイメージをともないがちだが、しかし記憶を構成するのはイメージではない」という事実(を前提にしなければ)記憶の本性に混乱が生じる。
 イメージはいま現在存在するものだ。(これに対し、)覚えられているものは過去に存在していたものだ。よって「記憶はイメージではない」といえる。
 私たちはイメージと覚えている対象を比較し、(対象の記憶が)イメージ(と比べて)どれくらい正確であるかを知る。しかしイメージが心の前(目の前)にないのなら、(対象の記憶との)比較は不可能だ。
 それゆえ記憶の本質はイメージではなく、過去に認知した対象を直接思いおこすことからなる。そうでなければ我々は過去を知らないし、「過去」という言葉も理解できない。
 かくして、過去の知識はいずれも、突き詰めれば直観的な記憶判断に基づく。
 したがって、(感覚の判断とは別に)記憶の直感的な判断は存在しなければならず、それらは最終的に過去のすべての知識に依存する。


<読書メモ>
 「記憶を構成するのはイメージではない」と言われると、どういうこと?と一瞬理解が追い付かない。追い付くために、上の抜粋をもう一度言葉を変えて反復してみたい。

 

 ラッセルが言うには、記憶とは対象の記憶であり、記憶の中のイメージはその対象を頭の中で再生した時に再生した対象から得られるイメージである。再生された対象から得られるイメージは、現在の自分が得ているイメージだということだろうか。
 記憶の中のAさんが「笑顔が素敵な人」だったとすると、「笑顔が素敵な」というのはイメージだ。しかしそのイメージは、Aさんの表情という再生された対象から得られる現在の私のイメージだ。今日のAさんが怒った表情しか見せないとすると、私は記憶の中で再生される笑顔のAさんと今日の怒ったAさんの表情を比較する。それはイメージを比較しているように見えて、実はそれぞれの対象を直観的に判断して比較しているということだ。
 もし過去に笑顔のAさんを見たことがなければ、笑顔のAさんを頭の中で再生することはできないし、「笑顔の素敵なAさん」というイメージ、すなわち記憶の直観的な判断も存在しない。最終的に、憶の直観的な判断は過去のすべての知識(私が見たAさんの過去のすべての表情という対象)に依存する。
 
参考1 哲学入門 バートランド・ラッセル著、高村夏輝訳、ちくま学芸文庫、2018年、第二十刷
参考2 http://www.gutenberg.org/files/5827/5827-h/5827-h.htm