オセローに出てくるマニピュレータ(読書感想文)
マニピュレータとは自分の欲望や嫉妬のために他人を追い詰め、その心を支配しようとする者のことだ。最初は親密さを装って近付いて信用させ、次第に虚実を絡めた言動で獲物を追い込んでいく。恐ろしいことに、狡猾なマニピュレータから逃れるのは極めて難しいという。これはジョージ・サイモン著「他人を支配したがる人たち」(参考1)に詳しく解説されている。
シェイクスピア作「オセロー」(参考2)には絵に描いたようなマニピュレータが登場する。オセロー将軍の旗手、イアーゴーだ。イアーゴーは言葉巧みにオセロー将軍に彼の妻のありもしない不倫をほのめかす。オセローは次第にそれを信じ込まされ、最後は悲劇で幕を閉じる。
マニピュレータが巧みなのは、人の心の中をターゲットにするところだ。人の心の中は事実の確認ができない。
オセローも最初は妻の不倫を信じていなかった。オセローは「疑いがあれば妻に直接問いただし、答えがNOであれば妻を信じる。」と言っていた。しかし後半、不倫の疑いでいっぱいになったオセローは、妻の答えがNOであればあるほどありもしない不倫への確信を高めてしまう。つまり、事実の確認は不可能だったのだ。自分の心が他人の心の真偽を判定することなどできるものではない。「オセロー」はそれを描いている。
「オセロー」は以前当ブログでも感想文を書いたが、今回マニピュレータという面から読み直すことで一層面白さが増した。別々の本が後でつながる瞬間も読書の醍醐味のひとつだろう。
(参考1) 『他人を支配したがる人たち 身近にいる「マニピュレータ―」の脅威』 ジョージ・サイモン著、秋山勝訳、2020年電子版発行、2014年第一刷、草思社文庫(Kindle)
(参考2) 『オセロー』シェイクスピア著、福田恆存訳、2021年3月第70刷、1973年第1刷、新潮文庫
「語りえぬものを語る」 読書メモ(第23章、その2)
本書(参考1)はウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。抜粋といっても私の理解できた内容に文章を崩している。本記事は23章の註に関する。
以下、本文抜粋。
P405
【1 男らしさ】
「男らしい」という言い方は男のプロトタイプを示していない。道ですれ違った男性を男だと認識する時、必ずしもその男性を「男らしい人」だとは認識しないからだ。では、「男らしい」とは男のプロトタイプとどう異なるのか。
まず、男のプロトタイプを考えてみる。ふつうの男が典型的にもっている性質だけをもち、例外的な性質は一切もたないような人物像だ。では「ふつうの男が典型的にもっている性質」とは何か。
「男というものはふつう(女と比べて相対的に)x」のxだ。「力が強い」「勇敢だ」「大胆だ」「気が利かない」「大雑把だ」など多くがリストアップされるだろう。しかしほとんどの男性はそのリストの項目のいずれかを満たさない。しかしこれはあくまでも「ふつうの男」像だ。また、「男」は「女」との対比を成す概念だから、基本的に女性との対比となる。
ここで、「ふつうの男」と「男らしさ」を比べてみると、「男らしさ」には「力が強い」とか「勇敢」であることは含まれても「気が利かない」や「大雑把」は含まれない。つまり、男らしさとは男のプロトタイプを構成する諸性質の中からポジティブなものを拾い出したものである。
【2 典型的な世界】
「プロトタイプ」と言わずに「典型的な物語」と言うことによって、より全体像的な含みが出る。例えば鳥のプロトタイプはあたかも図鑑を見ながら鳥の概念を習得しているようだ。しかし鳥に関する典型的な物語を語ることは、生息地や飼われたり食べられたりもする、きわめて多様な概念の全体を語ることだ。
しかも、ある概念にまつわる通念を語り出すとき、そこに登場する他のものたちもまた、プロトタイプとなる。例えばふつうの犬はふつうの人に飼われている。そこではいっさいの個性をはぎとられた純粋に概念レベルの普遍的な物語を語り出す。そこでは概念同士は論理的な関係よりもゆるい、通念レベルでつながりあい関連は広がっていく。
そして、典型的な物語は全体として典型的な世界全体を語り出すものとなる。もちろん手の届く範囲にスポットライトを当ててその一部分だけを語ることになるが、われわれが暗黙のうちにもつ概念のレベルでは、ある概念が開く典型的な物語は世界全体に広がっていくのだ。
著者はこの全体論的な含意をこめて、「典型的な物語」と呼ぶ。これはたんに「プロトタイプ」言い換えたものではなく、そこから一歩踏み出したものとなっている。
【3 「物語をこめる」ということ】
例えばそこに陶器のコーヒーカップがあれば、そこから典型的な物語が読みとられる。コーヒーを入れ、手に持ち、口に運び、洗って、しまう。
さらに、この相貌のもとに無数の物語が排除されている。例えばコーヒーカップがひとりでに動き出すことがないという了解や、コーヒーが自然に湧き出てくることはないという了解をわれわれはもっている。
われわれがコーヒーカップを見るとき、その相貌はその一時点の事実をはみ出している。
第一に、その時点に先立つ過去の物語やそれ以後の未来の物語をもっている。
第二に、反事実的な想像(倒したらこぼれるなど)をもっている。
第三に、無数の荒唐無稽な可能性を排除している。
われわれの現在の知覚は、このように過去-現在―未来という時間の流れの中にあり、反事実的な可能性の了解に取り込まれ、さらに無数の可能性を遮断することによって成り立っている。 著者はこれらをまとめて「相貌には物語がこめられている」と表現する。
だが、「こめられている」とはどういうことだろうか。
少なくともそれらは表立って考えているということではない。過去、未来、反事実的可能性、排除される無数の可能性、そうした物語の全体をすべて考えていることはありえない。
われわれが生きているのは「いま」であり、向かい合っているのはつねに現実の事実だ。
しかし、決して静止した一時点を生きているわけではない。そこは運動の途上にあり一定の方向を示している。目の前のコーヒーカップに対して、それを手に取り、コーヒーを飲もうとする構えのもとに見ている。こうした運動の方向に対する感受性の現れが相貌である。(おそらく相貌は、行為ないし行為の意図と密接な関係をもっている。しかし、著者はまだそうしたことを見通せていないという。)
【4 個体と相貌】
「個体と普遍」を論じる。犬を「ポチ」と捉えるときそれは「個体」と呼ばれ、「チワワ」という一般的な括り方で捉えるときそれは「普遍」と呼ばれる。だとすれば相貌は普遍である。では個体と相貌の関係はどのようなものか。「ポチという相貌」は考えられないのだろうか。
例えば「N・Y」という名の人がいる。N・Yさんを知るようになると、「N・Yさんらしいね」「N・Yさんらしくないね」と呼ぶべきもの、つまり「N・Yという相貌」が成立する。「N・Y」という人名は「N・Yさんらしい」という言い方において普遍名詞として機能する。固有名詞の普遍名詞化はたとえば「現代のソクラテス」という言い方における「ソクラテス」のように、ソクラテスに関わる典型的な物語を開くものが挙げられる。
このように普遍名詞としての機能を担うとき、固有名詞であっても相貌が伴うことになる。
さて、そうだとすると、個体とは何か。
チワワにポチと名付けたとき、特定の相貌示しているそれに名前をつけたが、その特定の相貌に名前をつけたのではない。
ポチは、特定の相貌をはみだしていく無限のディテイルを示すだろう。ポチの表情や毛の色でさえ、語りつくすことはできない。また、ポチのどのような典型的な物語を語ろうとも、ポチはそれをはみ出していく物語を生きるだろう。著者は「それ」こそを「ポチ」と名付けたのだ。
「それ」とは「実在性(リアリティ)」である。「それ」とはこちらがあてがった物語をはみ出し、さらなる語りへと突き動かす力――語らせる力――である。個体とは不変不滅の実体ではない。かつてヴィトゲンシュタインは『対象とは不変のもの・存在し続けるものである』と主張したが、それは間違いだと著者は言う。持続するのは、著者を語らせるポチの力であり、その力に応じようとする著者のポチへの関心である。著者は持続する関心のもとに語らせる力を「ポチ」と名付けた。
それゆえ固有名詞とは、対象の名前ではない。
著者は対象なき固有名詞という考えを「個体の唯名論」と呼ぶ。著者はかつて固有名詞の意味が時々刻々と変化すると論じたが、今や固有名詞は対象を指示しないと考えようとしている。
<読書メモ
「固有名詞は対象を指示しない」なんて思ってもみなかった。斬新だ。そして、よく考えてみるとかなり厳しいことを言っている。
実在性(リアリティ)が固有の名をもって物語を紡ぐことだとすると、人間のリアリティは堂々と名乗って公衆の面前に出て何かを行って批判されることにしか見いだせないのではないだろうか。
批判されないということは自分の範疇を超えていないということになる。内に籠った状態と同じだ。あるいは批判されないということは世界に相手にされていないということだとも言える。どちらもリアリティからは遠い。
固有名詞の無いふつうの世界に物語は存在しない。お金の世界は固有名詞の物語を飛び越してふつうの世界をモデルとする。お金の世界は交換可能な労働力を源泉としているからだ。だとするとお金を軸として消費し消費される行為にリアリティを求めてはいけないのかもしれない。
と、そんなことを考えているとこのブログが匿名であることに思い至った。つまり私のブログ記事にはリアリティがない。私は世界と関わることを拒否していることになるのだろうか。>
「語りえぬものを語る」 読書メモ(第23章、その1)
本書(参考1)はウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。抜粋といっても私の理解できた内容に文章を崩している。本記事は23章に関する。
以下、本文抜粋。
P396
【相貌を見る】
街に行き交う人々を見るとき、著者は単に「人として」しか見ていない。分解能が上がっても男女や老若等々の相貌でしか見ていない。そういった概念のレベルで見ているのだ。
どの概念のもとに相貌を知覚するかは、その対象に対する知覚主体の関心に応じている。関心があれば詳細に、なければ大雑把な概念になる。また自分の手持ちの概念でしか対象を捉えることができない。
では相貌を見るとはどういうことか。これに答えるには概念とは何かについて答えを与えておかねばならない。
【概念とプロトタイプ】
「鳥」という概念は鳥たちの集合だ。「鳥」の概念を満たすものの集合は「鳥」の外延と言われる。あるいはその集合を規定する諸特徴とも言われる。そのような外延を規定する特徴は内包と言われる。このように外延や内包によって概念を捉えようとする考え方は「古典的概念論」と呼ばれる。
古典的概念論に従って「鳥」という概念を外延的に捉えるとき、その集合には「鳥」と呼ばれるあらゆるものが属している。そこにはペンギンもいるが、空を飛ぶ鳥の歌に出てくる鳥にはペンギンは含まれない。
われわれの概念理解には鳥とそうでないものを弁別するだけではなく、鳥らしいものと鳥らしくないものを区別する理解も含まれる。そこで認知意味論はそうした典型例を「プロトタイプ」と呼ぶ。古典概念論に反して、ある概念の核心をその概念のプロトタイプを把握しているとする捉え方だ。
このようにプロトタイプを重視するとき、二人の人が同じものを「鳥」と呼んだとしても、つまり外延の規定は同じだとしても、何を典型例にするかによってその概念内容は異なりうることになる。
ペンギンを鳥のプロトタイプと捉える人はカラスを見て「変な鳥!」と言うだろう。その人はわれわれとはかなり異なる「鳥」概念をもつ。
あるいは時代によって変化するプロトタイプもある。たとえば「男」の概念は今と昔では変わっている。
【意味と事実】
「鳥」という概念と「空を飛ぶ」という属性の関係を考えたとき、「空を飛ばない鳥」は矛盾しないため、古典的概念論のもとでは「鳥」には「空を飛ぶ」という属性は含まれない。
だが、プロトタイプという考え方においては「ふつうの鳥は空を飛ぶ」は「鳥」の意味に関わるものだ。この場合「鳥」という語の意味、鳥の概念の内に、典型的な鳥についての様々な事実が入り込む。これはプロトタイプという考え方の重要な帰結だ。
しかし、どのような事実でも意味の内に入り込むわけではない。カラスは紫外領域を見ることができるが、それはカラスの概念には含まれない。では、どのような事実が概念に含まれるのか。この問いは「プロトタイプ」とは何なのかという問いである。
【典型的な物語】
梢で鳴いているカラスは鳥のプロトタイプだろうか。カラスは鳥のプロトタイプだとしても、梢で鳴いているあれは鳥のプロトタイプではない。あのカラスはあれなりに個性を何か持っているだろう。しかし、プロトタイプは一切個性を持たない。プロトタイプは現実に存在するものではなく、概念的に構成された抽象的なものだ。
そこで著者はプロトタイプの通念を「典型的な物語」と呼び、概念を理解するということは、その概念のもとに開ける物語を理解することだとする。
それゆえ、概念を教えるにはその概念の典型的な物語を教えねばならない。例えば恋愛小説やドラマはそれぞれに個別の要素が含まれるが、そこで教えたいのはふつうの恋愛である。ふつうの恋愛とはいっさいの個性を剥ぎ取られた徹頭徹尾凡庸な恋愛であり、おそらくは世の中に存在しない恋愛である。
【物語を見る】
相貌を見るとは何か。
相貌とは、あるものをある概念のもとに知覚することだ。相貌を知覚するとは、その概念のもとに開ける典型的な物語をそこにこめて知覚することであり、われわれはそこ(相貌)に物語を見ている。
相貌は、それ(認識)をどのような物語の内に位置づけるかに応じて変化する。例えば泣いている女性が写った写真は、前後のどんなストーリーをもつかによって劇的に異なる相貌を持ちうる。われわれが現実に出会うどの一場面も、なんらかの物語の一場面だ。それに関心が無いときは「人」や「犬」や「空き缶」もそれぞれの来し方と行く末がある。それに関心が無ければそこに読み込まれるのは「人」や「犬」や「空き缶」という語を用いて語られる典型的な物語だ。
相貌には物語がこめられている。一般に何かを「aとして」知覚するとは、「a」という言葉を用いて語りだされる典型的な物語をそこにこめることだ。相貌とは、言語がわれわれに見せる世界なのだ。
【現実のリアリティ】
だが、現実はつねに、典型的な物語をはみ出している。
第一に、現実は典型的な物語にはない豊かなディテイルをもつ。ある犬をたんに「犬」としての相貌で見ていたとしても、その犬の今朝のことや色や形など、典型的な物語では触れられていない細部に満ちている。
第二に、しばしば現実は典型から逸脱する性質やふるまいを示す。「変」とまでは言わないが典型からずれていることはいくらでもある。
「実在性(リアリティ)」には二つの意味がある。一つは際限のないディテイルをもつこと。もう一つは典型的ではない物語への逸脱である。目の前のことに関心がなければそれは典型的な物語の内側にある。しかし同時にそこからはみ出す実在性もわれわれは受けとっている。
典型的な物語はあくまでスタート地点であり、言語による「初期設定(デフォルト)」だ。われわれはまず言語が見せる相貌の世界に立つ。そして、世界の実在性に突き動かされ、新たな物語へと進むのだ。
<読書メモ
言語による典型的な物語があることで見えなくなっているものが沢山ある。野矢氏は、まず現実があって次にそれを表現する言葉が出てくるという私の常識を覆す。言葉に伴って私の中には予め典型的な物語があり、私は目に映ったものにその物語を当てはめているのだという。そこがスタートであり、世界の実在性に伴って物語の追加修正が行われる。
かなり飛躍するが、自己認識をこの流れに沿って解釈するとどうなるのだろう。自分は自分に関する多くの物語を持っている。それは言語が見せる私自身の相貌だ。
だが、人は自分自身に信じ込ませている嘘の物語を持っていることがある。それもまた私から見れば私自身の相貌だ。
嘘であることは注意深く隠され、自分自身でさえ巧妙にだまされているので殆どの人は一生それに気付くことはない。これがキェルケゴールの言うところの絶望だ。このへんは「死に至る病」(参考2)に詳しく書かれている。
自己認識に限った話ではないが、もし相貌に主観的なものが混ざっているとすれば、私は私の見る相貌を短絡的に普遍だとすることのないよう、かなりの注意を払う必要がある。>
参考1 語りえぬものを語る 野矢茂樹著 講談社学術文庫 2020年、第1刷
参考2 死に至る病 キェルケゴール著 斎藤信治訳 岩波文庫 第108刷
正義と悪と快と不快
勧善懲悪の物語は、最初に悪事が為された後に正義が現れ悪をやっつける。そして我々は留飲を下げる。悪が為されると不快であり、悪に懲罰が与えられると快である。このように正義と快、不快はとても相性が良い。快感を味わうには外部に悪や敵を作れば良いということさえ言われる。(参考1)
一方で、善とか徳になると話は急に難しくなる。正義は悪の次に出てくるが、善や徳は最初からそこにあるのだ。しかも単純な対立項が無い。更には快不快という感覚を伴いにくい。善や徳はひとつの理想だ。理想ゆえに言葉を尽くさねばならず、説明が難しい。
話が変わって最近気になるのが快不快をアバウトに表現する言葉だ。「ヤバい」「鳥肌立った」「うざい」「むかつく」「きもい」。これらは事象を細分化して説明せずに、結果として現れた感覚や感情だけを表現する。感覚や感情だけが優先される状態は、勧善懲悪の物語と相性が良い。勧善懲悪の物語を消費するのに言語化という難しさは要らない。ただ興奮と心地良さだけが存在する。
AIの進歩は言語化の能力を奪っていくだろう。ChatGPTのような文章作成AIはおそらく1~2年の間に急激に認知され、私を含め、知らず知らずのうちにそれに依存する人達を大量に作り出すはずだ。その方が楽だと知った人間は、言語化とりわけ論理構築の能力をいとも簡単に手放していくだろう。
その果てに残るものは感覚だ。自分が自分であるという実感は、言語化能力が失われた場合、感覚に委ねられる。われわれは生きている実感を勧善懲悪の物語に重ね合わせ、悪を叩くヒーローに熱狂していく。善や徳のような面倒なものはインチキだと決めつけながら。
「語りえぬものを語る」 読書メモ(第22章、その2)
本書(参考1)はウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。抜粋といっても私の理解できた内容に文章を崩している。本記事は22章の註に関する。
以下、本文抜粋。
P387
【1 概念主義に対するもう一つの反論】
概念主義に対するもう一つの反論として、「言語を持たない動物や赤ん坊は知覚していないことになる」というものがある。概念主義者はこれに対し、概念主義は言語をもつ人間についての主張であるため、それ以外を論ずるものではないと反論するだろう。必要であれば非概念的知覚を認めることもできる。概念主義は言語をもった人間の意識的な知覚についてはすべて概念的だとする。
しかし、これは赤ん坊の知覚と言葉をもつ人間の知覚をまったく異なるものとして峻別する考え方だ。著者はこの考え方をわれわれの直観に合致しないものだと指摘する。著者は動物や赤ん坊の知覚は、部分的にせよわれわれと共通なものであるはずだとする。ただしこれは反論というほど強いものではない。
【2 非概念的な知覚と複眼的構造】
かつて著者は知覚と感覚の違いについて、知覚は「――であることを見る」といった形式をもつが感覚はもたないとした。例えば痛みは「――であることを痛む」といった形式をもたない。
しかし当時著者は概念的な知覚しか考えていなかった。ゆえにここではこれを修正する。
「――であることを見る」の「であること」とは言語的・概念的な内容だ。では非概念的な知覚は感覚に近いのか。
まず、著者が現在考える知覚と感覚の違いの核心はこうだ。知覚は「同一の対象を異なる視点から捉えること」にある。(ここでいう「視点」とは視覚以外の知覚様態まで拡張されるものだ。)これを「複眼的構造」と呼ぶ。
これに対して感覚は「複眼的構造」ではなく「単眼的構造」をもつ。コーヒーカップを知覚する場合に「もっとよく見てごらん」という言い方はできるが、感覚であるところの痛みは「もっとよく痛んでごらん」とは言わないからだ。
ここで、非言語的な知覚も複眼的構造を持つのかという問に対して著者は持たないと言う。世界を対象に分節化するのは言語だけなので、非概念的・非言語的な知覚は複眼的構造を持ちようがないのだ。そう思われたのだが、【1】の直観に従ってもうしばらく進んでみることにする。
非言語的知覚が複眼的構造をもたなくても非言語的知覚は「知覚」と呼べる場合がある。例えばコーヒーカップのいわく言い難い色合いがあったとすれば、それを見るために近付いたり手に取ったりするかもしれない。このように視点を変えて観察することも可能になる。そうだとすれば、最初に言語的・概念的な知覚において対象が与えられ、その上でその対象のもとに非言語的・非概念的知覚が成り立つという構図になっているのではないか。
しかしこれは第20章で論じた想起の議論とパラレルである。(議論の構成が似ているということ)。
想起の議論とはすなわち、過去への志向性をもつのは言語だけであり、非言語的な身体的記憶はそれ自体では過去についてのものにはならないこと。記憶はすべて言語的であるとは言えないが、少なくとも言語的想起がなければならないといった議論である。
同じことが知覚にも言える。知覚において対象への志向性をもつのは言語的知覚だけであり非言語的知覚はそれ自体では対象のものとはならない。知覚はすべて言語的・概念的であるとは言えないが、少なくとも言語的・概念的な知覚がなければならない。
そうだとすると言語をもたない動物や赤ん坊はどうなるのか。これまでの議論では概念的知覚がゼロであれば非概念的知覚は複眼的構造をもちえないことになる。他方、著者は複眼的構造を知覚の本質と考えてきた。よって選択肢は2つだ。
(1) 言語をもたない動物や赤ん坊は知覚しない
(2) 複眼的構造は知覚の本質ではない
著者はいったん(1)を結論とした。猫は後悔しないだろう。猫は分節化した構造をもった言語をもたないそれゆえ対象を分節化していない。同一の対象をさまざまな視点から捉えることもない。したがって知覚していない。――この議論のどこかに穴はないか。
言語をもたない動物に複雑な心の動きはない。だが言語をもたないことで何が失われているのかを慎重に見きわめなければならない。見きわめるのは「言語をつかう」と「知覚する」ということの間の概念上の連関である。
分節化された言語は、事実に反する可能性を理解する。動物は現実べったりなので「ああすればよかった」とか「こうしなければよかった」といった後悔はもちえない。
また、対象を分節化するということは、その対象を異なる状況において考えることができるという反事実な了解を必要とする。例えば机の上のコーヒーカップを別々の対象として理解するためには、そのコーヒーカップが手の上に置かれたり放り投げられたりする反事実的な可能性もまた了解していなければならない。
こうした反事実的な了解は分節化された言語をもたない動物はもちえない。しかし動物は獲物を追跡することはできる。ただしこれは分節化とは区別せねばならない。獲物は状況に埋め込まれており、状況から切り離された自律的な対象ではない。あえて表現すれば、非言語的な場の中で特定の刺激パターンに反応していると言ってよい。対象を分節化する以前の刺激―反応構造の中で追跡は捉えられるだろう。
動物は対象を概念レベルで捉えてはいないが、特定の対象に対して識別的に反応することはできる。おもちゃを咥えて持ってくる遊びを繰り返す猫はそのおもちゃを複眼的にとらえていると言ってよいのではないか。
言語をもたない動物は、現実の中だけであれ変化する視点の中で同一の対象に対して識別的に反応することはできる。つまり、複眼的構造は反事実的な可能性まで要求しなくとも、現実の中だけでも持ちうるのだ。
そうであれば、知覚の本質は複眼的構造にあるということと、動物や赤ん坊が知覚をもつということは矛盾しない。
<読書メモ
児童のかんしゃくや暴力などの問題行動の対処法として一般に感情の制御や言語化が論じられている。感情は視覚や聴覚よりも複雑だが、意識されないものとされたもの、概念化(分節による言語化)されないものとされたものに分けることができることから知覚や感覚に近いものだと思われる。
また、感情制御の重要性は児童に限ったことではない。言葉を習得した大人でも大きな意味を持つ。
これらを踏まえて「感情」を本章に沿って整理し直してみた。
知覚と感覚の違いは複眼的構造を持つか持たないかだ。本章の獲物を追う動物の例によると、分節化しなくとも知覚は存在するがそれは単なる状況に対する反応でしかない。嫌な気分になったら暴力的にふるまうとか逃げるといった単純な反応だ。
これに対して感情が分節化されたらどうなるだろう。コーヒーカップの例のように反事実的な可能性を伴うものとして言語化されたらどうなるか。
例えば嫌な事を言われ、釈然としない状況があったとする。これを分節化するということは、その人の言葉や行動やその人と自分を取り巻く社会的状況に関して様々な反事実的可能性を考えてみることであり、自分の今後の言動についても様々な可能性を考えてみることだ。そして様々なケースにおいて自分の感情にどのような差異が生じるのかを一つ一つ検証するのだ。これらの作業は当然ながら言語化が必要だ。
読書の効用も実はここにあるのかもしれない。小説には極めて繊細で微妙な心の動きが描かれることがある。これが自分の中に少しずつストックされるのだ。映画やドラマも同じだが演技という非言語的表現が半分を占めるため、言語による感情の概念化という面では読書に勝るものはないだろう。朗読を聞くことも、読み直しが難しいという点はあるものの同じような効果が期待される。
感情の言語化の事例を多く知っており、且つそれらを自分の感情の言語化に応用できる人ほど強くしなやかだ。逆に言語化が為されない場合は、動物と同じく一つの状況に特定の反応しか現れない。嫌な事を言われた時に殴るか考えないようにするかという選択肢しか無い状況はあまりにも悲しい。
読書は生きるための武器だ。>
「語りえぬものを語る」 読書メモ(第22章、その1)
本書(参考1)はウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。抜粋といっても私の理解できた内容に文章を崩している。本記事は22章に関する。
以下、本文抜粋。
P377
知覚は言語的な体験か、非言語的な体験か。これは現代哲学の論点のひとつだ。知覚を言語的・概念的だという主張は「概念主義」と呼ばれ、知覚を非言語的・非概念的だという主張は「非概念主義」と呼ばれる。
ここで著者は、概念的な知覚も非概念的な知覚もどちらもあるという立場をとる。
【知覚と相貌】
概念主義の旗頭ジョン・マクダウェルは、前章のウィルフリッド・セラーズの「所与の神話」を踏襲する。言葉で語られないものは言葉で語られた知識にはなり得ず、知識は概念的でなければならないという主張だ。
それに対して著者は、非概念的な体験が概念的な知識を正当化すると論じてきた。つまり、知識はわれわれが行為する場面で活用されるが、その行為がうまくいくかどうかはその行為がどのような言葉で語られるかということとは別問題だということだ。ロケットが飛ぶ、お腹をこわす、といった非概念的経験が行為の結果である場合、知識の正当化は概念的でも非概念的でもどちらでもよい。
マクダウェルの議論とは別に、知覚は概念的・言語的側面を持つと著者は考える。第7回で出てきたクリーニャーという概念を持つ人は、猫を見ても掃除機を見ても「クリーニャー」だと言う。われわれには猫だと見えるそれが、彼等にとっては「クリーニャー」という相貌をもつ。それはわれわれには想像もつかない相貌だ。相貌はまさにどのような概念を持つかに依存する。
われわれの知覚するものはさまざまな性質や状態や動作、そしてそれらが組み合わさった事実という相貌をもっている。では、知覚はすべて概念的なのだろうか。
【無意識的な知覚】
知覚には無意識的な知覚もあるということを見ていこう。
飛んできたボールを「ボールが飛んできた」という自覚なしによけるということはあるだろう。そのとき、「目に入っていたけれど見ていなかった」あるいは「無意識のうちに見ていた」と言われるかもしれないが、いずれにせよ「目に入っていた」と言われうる。これを著者は知覚と呼ぶ。情報が入力されて行為や行為の構えが引き起こされ、それが適切であるならばその情報の取得は知覚だ。
無意識的な知覚を認めるならば、非概念的な知覚も認められるだろう。感覚器官を通して非概念的な情報が入力され、それを自覚することなく身体がその刺激に反応する例はいくらでもある。
とはいえ無意識の知覚がすべて非概念的というわけでもない。無意識のうちに相貌を知覚し、反応していることもある。例えば、パーティー会場で背後の会話を聞いていなかったのに自分の名前が口にされたらそこだけ聞こえてくる現象がある。ここで無意識のうちに処理されたのは会話であるから概念的なものだ。よって無意識のうちに概念的に知覚されたと言える。
つまり、無意識の知覚のレベルでは非概念的な知覚も概念的な知覚もともに見出せる。では、意識的な知覚の場合はどうか。
【微妙な色合いという問題】
概念主義は、意識的な知覚はすべて概念的であると主張するが、著者は意識的な知覚にも概念的な知覚と非概念的な知覚があるとする。
非概念主義の主張はシンプルだ。りんごの色合いをすべて言語で表現することはできないというものだ。
これに対してマクダウェルの反論はこうだ。
「確かに微妙な色合いを表現する言葉はない。しかし『この色合い』や『あの色合い』といった言い方で表現することはできる。『この』『あの』という指示詞で表現されている色が新たな色見本になり、概念的に色を捉えられていることになる。かくして、われわれが認知しうる色合いはすべて概念化が可能だ。」
著者はこのマクダウェルの反論に反論する。
「『この色合い』だけでは概念を形成したことにはならない。見本が必要であり、言葉だけでは定義ができないからだ。概念はわれわれの安定した言語使用において形成される。ヴィトゲンシュタイン的に言えば概念を定めるのは慣用であり、グッドマン的に言えば習慣による囲い込みである。
第二に、初めてその色合いを見た場面ではそれに関わる慣用も習慣も形成されていないので、われわれは概念をもっていない。例えば「クリーニャー」の概念をわれわれは理解し、既存の日本語に翻訳することはできるが、「猫または掃除機」といった概念を実際に使いこなしてはいない。その意味でわれわれは概念をもっていない。
日本語で表現できない「その色合い」は既存の日本語で用いられていないので、われわれはその概念を使いこなしてはおらず、その概念をもっていない。するとほとんどの色合いについてわれわれは概念をもっていないと言ううべきだろう。
【味覚はどのようにして概念的なのか】
味覚の事例で考えてみる。第一レベルは「この味、好きだなあ」という素人レベル、第二レベルはその味を再現できる(識別できる)、第三レベルは実際に口にしていなくてもその味を作ることがで、更に加工を加えることができるレベルだ。
ここでマクダウェルは概念的な知覚の条件として第二レベルを要求しているが、著者はこれに二つの点で反論する。
第一に、著者は実際の経験のレベルをマクダウェルよりも低く設定する。再現のできない素人レベル(第一レベル)は確かにあり、それそのものが非概念的な味覚経験であるからだ。
第二に、著者は「概念的」レベルをマクダウェルよりも高く、料理人レベル(第三レベル)に設定する。概念というからには実際に存在しなくてもそれを用いて思考できなければならない。
つまり再現できない(非概念的な)味覚はあるし、再現できるから概念的だというには不十分なのだ。
【非概念的な知覚は概念化の可能性を持つ】
知覚は意識的であれ無意識的であれ、概念的なものと非概念的なものをともにもっている。「曇った空」は概念的に捉えられると同時に非概念的なニュアンスや表情をまとった相貌として現れている。
最後に、非概念的な知覚は概念化の可能性をもっていることを説明する。マクダウェルの「この色合い」は概念化の緒端を与える。「この色合い」を見本として慣用と習慣の形成を働きかけ、それが定着すればわれわれは「この色合い」の概念をもつようになる。あるいは「山笑う」という表現がわれわれの言語実践の中に定着すれば、「山笑う」という相貌が立ち現われるだろう。こうして非概念的な知覚はいつか語り出されるかもしれないときを待っているのだ。
<読書メモ
以下、本章のまとめとメモ。
「知覚は意識的であろうがなかろうが、常に概念的なものと非概念的なものという両側面を持つ。この説明のために例示されたのは色合いと味覚だ。そして、非概念的な知覚は概念化される可能性を持っており、概念化された状態を著者は「相貌が立ち現われる」と表現している。ただし相貌は概念から立ち現われるのだとしても、常に非概念的な知覚を含んでいるとも言える。」
著者の言う相貌がここでも解説されている。相貌は言葉で分節化された概念を元に立ち現われるものだ。しかし同時に非概念的な側面もあわせもつ。著者からすると、形而上の概念は相貌とは呼ばないのだろう。>