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哲学入門(バートランド・ラッセル著)15章 メモ(3)

 ラッセルの哲学入門(参考1)15章「哲学の価値」の、抜粋と読書メモです。


P189、14行~P190、6行
 多くの哲学者は宗教的信念の正しさが厳密に証明し得ると想定している。この試みが正当かどうかを判定するには、知識の方法と限界に関して意見を持つ必要がある。宗教的信念の正しさの証明について独断的に判断するのは愚かしい。


 しかし、本書の研究が正しければ、宗教的信念の正しさの哲学的証明をしようとする希望は捨てるべきだ。


 だから宗教的信念の正しさの証明に対する一連の解答を哲学の価値に含めてはいけない。宗教的信念の正しさを証明したとする者が獲得したと言う知識と想定されるものに哲学の価値をゆだねてはならない。

 


<読書メモ>
 さらっと読み流したい部分だが、この文章の過激さを最近の日本で育ってきた私はおそらく理解できていない。宗教的信念と哲学の価値はもともと極めて分け難いものだと思われるからだ。


 例えば創世記には知恵の実を食べたアダムとイブは神から楽園を追われ、アダムは一生の間、労しつつ土から食を獲(え)なければならないことになったが、この話は土地や物の所有の概念に結びついたと言われている。


 福音書には、主人から預かったお金を増やした者はより良い仕事を与えられる話がある。しかし、お金を土に埋めて無くさなかった者は主人にそのお金を奪われる。そして主人はお金を増やした者にそのお金を与える。これは資本の増大を善とする考え方に根拠を与えたと言われている。


 経典宗教は社会のイデオロギーの基礎となっており、当然哲学的思想にもがっちり根をはっているはずだ。ルソーやカントの哲学は宗教的概念を注意深く避けて形成されていると言われるが、そうであればなおさら宗教的概念とパラレルに構築されているとも言える。


 つまり宗教的概念はどうあっても無視できない。それだけにこのラッセルの記述は過激なはずであり、おそらく最近の日本で育ってきた私には理解できていないと思うのだ。


 余談だが、特定の宗教や宗派の信者でないことは、信仰を持っていないこととは異なる。信仰の定義が「ある形而上の概念に自分を措定していることに自覚的なこと」とするなら、ご先祖様や大自然や世間、国家やお金さえ信仰の対象となる。


 このことに自覚が無い状態は怖い。自らが依って立つ概念に無自覚であれば、気付かないうちに嘘の鎧で自分を守ってしまうからだ。

 

 

参考1 哲学入門 バートランド・ラッセル著、高村夏輝訳、ちくま学芸文庫、2018年、第二十刷
参考2 http://www.gutenberg.org/files/5827/5827-h/5827-h.htm