作文練習

何か書くと楽しい、かもしれない。

哲学入門(バートランド・ラッセル著)8章 メモ(5)

 哲学入門(参考1)の8章、P103の8行目からです。もうなんだか、引用だらけです。

 

<要約1>
 カントはヒュームの懐疑論を知って動揺し、努力して原因と結果の結合以外にも算術と幾何学も分析的ではなく総合的であることを見てとった。カントは7+5=12を例にして、7と5それぞれの中に12という概念は存在しないため、7+5=12は総合的判断であると説明した。ラッセルはこれを正しいと考える。
 ここからカントは、純粋数学はすべてアプリオリではあるが総合的であると結論する。これが新たな問題を生み、カントはその解決に向けて努力した。
 カントは「純粋数学はいかにして可能か」という問いを置いた。これは難しい問題で、徹底した懐疑論以外のいかなる哲学もこれにこたえなければならない。
 純粋な経験論者は、数学は個別事例からの帰納によって得られるというが、これは既に本書で間違いであることを説明した。数学的一般命題や論理学の知識は経験的一般化の知識とは違った仕方で説明されねばならず、論理学についても同じことが言える。(参考1  P103、8行~P104、11行)


<読書メモ1>
 まず、カントはヒューム哲学を知ってどう動揺したのでしょうか。
 純粋理性批判から引用してみます。
「原因の概念は、原因が結果と結びつく必然性という概念と、この規則性即ち因果律の厳密な普遍性という概念を明らかに含んでいるのである。もし我々が原因の概念を、ヒュームがしたように習慣から引き出そうとしたら、この概念はまったく成りたたないであろう。ヒュームは、生起するものがそれに先だつところのものにしばしば随伴するところから、これら両つの表象を結合する習慣(したがってまた単なる主観的必然)が生じたと言うのである。」(参考3 P60~61から引用)
 カントはこれに続いて、個別事例を挙げなくてもア・プリオリな純粋判断が経験そのものを可能ならしめるために欠くことのできないものであることや、一切の因果が偶然であるとするならばその規則を原理として認めることはできないことを挙げて、ヒューム哲学に反論しています。(参考3 P60)
 続いてカントは純粋数学はどうして可能であるか」(参考3 P75)という問いを立てますが、それはそのままア・プリオリな綜合的判断はどうして可能であるか」(参考3 P73)という問いでもあります。この問いの考察に関し、カントは再びヒューム哲学への反論を行っています。
 ア・プリオリな綜合的判断はどうして可能であるかという課題に最も近づいたのは)ヒュームである。しかし彼とても、かかる課題を十分に考えたわけではなく、またこの課題が普遍性をもつものであることに考えが及んだのでもなくて、生起した結果をその原因に結び付けるという綜合的命題(因果律の原理、或は因果律)だけにとどまり、それ以上には出なかった。そして彼は、かかる命題はア・プリオリにはまったく不可能であることを明らかにし得た、と信じたのである。それだから彼の推論に従うと、我々が形而上学と呼ぶところのものはすべて、実際にはまったく経験から得られたものや、また習慣によって見かけだけの必然性を得たところのものを、理性の真正な洞察と思い誤った妄想にすぎないということになるだろう。もしヒュームが、我々の提出した課題は普遍性を持つものであるということを念頭においていたなら、彼は一切の純粋哲学を破壊するようなかかる主張を思いつきはしなかっただろう。そしてまた彼は、彼の理論に従うと純粋数学すら存在しなくなるだろうということを覚ったであろう、この学はア・プリオリな綜合的命題を含んでいるからである。」(参考3 P74から引用)

 

 カントが言うように、本当にヒュームは形而上学的な概念すら疑っていたということなのでしょうか。偉い先生教えてください!


 要約1で述べた徹底的な懐疑論者とはヒュームのことだと思いますが、なぜヒュームは「純粋数学はいかにして可能か」という問いに答えなくて良いのでしょうか。ヒュームは純粋な経験論者ではないからということらしいのですが、ここのロジックは私には良く分かりませんでした。


 この辺から分かんないことだらけになってきますが、頑張ります。

 


参考1 哲学入門 バートランド・ラッセル著、高村夏輝訳、ちくま学芸文庫、第二十刷
参考2 http://www.gutenberg.org/files/5827/5827-h/5827-h.htm
参考3 純粋理性批判(上) カント著、篠田英雄訳、岩波文庫、第72刷