作文練習

何か書くと楽しい、かもしれない。

哲学入門(バートランド・ラッセル著)8章 メモ(7)

やべえ。間に合わない。

哲学入門(参考1)の8章、P106の8行目からです。

 

<要約1>
 カントは物自体[原注1](物的対象)を本質的に知り得ないものとみなす。知りうるのは経験に現れる対象(現象)だけである。現象は知覚者と物自体の共同の産物だから、知覚者に由来する特性を持つ。故にアプリオリな知識と一致する。よってアプリオリな知識は現実的可能的な経験に関して真であるが、経験の外部には適用できない。
 カントはこうして合理論者と経験論者の和解と調和を試みた。(参考1  P106、8~16行)
[原注1] カントは物自体に適用できるカテゴリーを私たちは知ることができないとする。物自体がセンスデータの原因であるにもかかわらず、物自体は原因というカテゴリーから外れるのは整合性がない。(参考1 P112)
[原注1の注26]カントは12のカテゴリーを挙げているがその中には因果律が含まれる。つまり現象が経験の対象となるかぎり、その対象は必然的に原因を持つことになり、因果性の判断が総合的でありつつもアプリオリであることが説明される。(参考1 P210)

<読書メモ1>
カントの純粋理性批判から気になる部分を引用して私の頭を整理する。
(1) 理性と悟性について
 私の理解では、カントは理性(Reason)と悟性(Understanding)を明確に区別している。理性とは形而上的なものを認識するときに働くもので、一方、悟性は現象を判断するときに用いられる。理性が認識するものは経験の対象になりえないもの(参考3 P43、14行)であり、例えば「神、自由および不死[霊魂の]」である。(参考3 P43、11行)一方、悟性は感覚がもたらすものが何であるかを判断するためや、数学や物理を理解するために必要なものだと私は理解している。
 例えが適切かどうか分からないが、水がH2Oであり液体や気体や個体として存在することが分かる(Understanding)のが悟性の働きだとすれば、この世に水が何故あるのか(Reason)を考えるのが理性の働きだ。
(2) 物自体について
 以下、引用。
 「我々の悟性概念に対応する直観が与えられ得ないとすれば、我々はいかなる悟性概念ももち得ないし、従ってまたものを認識するに必要な要素を一つももたないことになる、ということである。つまり我々が認識し得るのは、物自体としての対象ではなくて、感性的直観の対象としての物――換言すれば、現象としての物だけである。
 するとこのことから、およそ理性の可能的な思弁的認識は、すべて経験の対象のみに限られるという結論が当然生じてくる。ところで(中略)、我々はこの同じ対象を、たとえ物自体として認識することはできないにせよ、しかし少なくともこれを物自体として考えることができねばならないという考えは、依然として保留されている。
さもないと現象として現れる当のもの[物自体]が存在しないのに、現象が存在するという不合理な命題が生じてくるからである。」(参考3 P40~41)

 ラッセルの言う通り、確かにカントは明確に物自体を現象の原因であるとしている。ここからが分かり難いのだが、カントは我々が認識できるのは現象としての物だけであり、物自体は認識できないものだとしている。つまり物自体は経験し得ないもの、理性の領域、形而上的なものだと言うのである。
(3)カテゴリーについて
 カントの言う「対象の直観一般にア・プリオリに関係する純粋悟性概念」のカテゴリーを紹介する。
1、 分量  単一性
      数多性
      総体性
2、性質  実在性
      否定性
      制限性
3、関係  付属性と自存性との関係
      原因性(因果性)と依存性との関係
      相互性との関係(能動者と受動者との間の相互作用)
4、様態  可能―不可能
      現実的存在―非存在
      必然性―偶然性
(参考3 P152~153)
 ラッセルの言う通り、カントのカテゴリーには原因性、因果性が含まれている。しかしここで私が混乱するのは、このカテゴリーはそもそもが悟性概念に関するものであるのに対し、物自体は理性概念に関するため、悟性概念のカテゴリーの範囲から外れるのではないか思われる点だ。ラッセルが指摘する矛盾がこれをどうくぐり抜けたのか。おそらく緻密なロジックがあるのだろうが、私にはまだ読めていない。

 


参考1 哲学入門 バートランド・ラッセル著、高村夏輝訳、ちくま学芸文庫、第二十刷
参考2 http://www.gutenberg.org/files/5827/5827-h/5827-h.htm
参考3 純粋理性批判(上) カント著、篠田英雄訳、岩波文庫、第72刷