作文練習

何か書くと楽しい、かもしれない。

哲学入門(バートランド・ラッセル著)8章 メモ(2)

 哲学入門(参考1)の8章、P102の2行目からです。

 

<要約1>
 カント以前は、アプリオリな知識はすべて「分析的」でなければならないと考えられていた。
 「分析的」とは、主語が少なくとも二つの性質を持つものとして与えられ(術語において)それらの一つが主張されているものを言う。例:平面図形は図形だ。
 従って、カント以前は「いかなるものも、ある性質を持つと同時に持たないことはない」という矛盾律さえあれば、すべてのアプリオリな知識は確立された。(参考1 P102、2~16行)
<読書メモ1>
 カントの分析的判断に関する記述をカントの純粋理性批判から抜粋する。
 「術語Bが主語Aの概念のうちにすでに(隠れて)含まれているものとして主語Aに属する」(参考3 P65~66から引用)
 カントはここで「分析的判断」とは主語を分析すればそこに術語の概念が含まれていることだと述べている。ラッセルは形容詞+名詞を主語の例として挙げているが、これは例を分かり易くしただけで、カントは主語を単に名詞としている。
 要約1の最後の部分、「カント以前は矛盾律からすべてのアプリオリな知識が確立されていた」がポイントである。分析的(知識)がアプリオリな知識とぴったり一致する場合に限定される時、これが言えるのだ。ラッセルによると、カント以前は分析的(知識)がアプリオリな知識とぴったり一致していたので、主語Aは術語Bである、と主語Aは術語Cではない、あるいは主語Aは術語非Bではない。は同時に成り立つとされた。

 

 当たり前じゃん!何言ってんの?カント以後もそうじゃないの?と思ってしまったので、もう一度純粋理性批判を読んでみたところ、こんなことが書いてあった。

 

 「一般論理学は、術語の一切の内容を(術語が否定的であっても)度外視して、ただ術語が主語に付け加えられるか〔主語を肯定するか〕、或はこれと対立するか〔主語を否定するか〕ということだけを問題にする。ところが先験的論理学は、否定的術語による論理的肯定の価値即ち内容の上からも無限的判断を考察し、かかる論理的肯定がこの認識全体に関してどんな利益をもたらすかということを考えてみるのである」(参考3 P145から引用)
 判断の悟性形式における判断の性質(引用文中の語句説明)
  肯定的判断:AはBである
  否定的判断:AはBでない
  無限的判断:Aは非Bである
 (参考3 P143)

 カントはここで”論理的肯定の価値即ち内容”を問題にしている。カントは引用文の後に「霊魂は死なない(可死的ではない)」という無限的判断の命題について解説しているので続けて紹介する。
 カントは、「可死的でないもの即ち非BはB以外の無限の外延であり、その中の有限な一部を霊魂が占めているだけで、可死的でないものは他にも沢山ある。従って無限的判断(Aは非Bである)という命題を扱うときはその無限の外延をどこまで認識できるかについてよく吟味しなければならない」と説明している。
 
 長々と書いたが、要するにカントは形而上のものを理解するため矛盾律を用いる場合はその認識の限界を吟味しろと言っているのだ。「すべての」とか「無限の」とか「~以外の」という認識があるとして、一般論理学によってそれらに悟性の形式を与えるというのは極めて誘惑的であり、その結果ありもしないものを生み出してしまう恐れがある(参考3 P132)。注意しろとカントは言っているのだ。

 

 ラッセルの話に戻ると、以上の理由から矛盾律の濫用は制限されねばならない。そういった意味でラッセルは矛盾律を含む伝統的な「思考法則」は好ましくない(参考1 P90)と言ったのではないか。ここではラッセルはカントを全面肯定している。自信はないけど私はそう理解した。

 

参考1 哲学入門 バートランド・ラッセル著、高村夏輝訳、ちくま学芸文庫、第二十刷
参考2 http://www.gutenberg.org/files/5827/5827-h/5827-h.htm
参考3 純粋理性批判(上) カント著、篠田英雄訳、岩波文庫、第72刷