作文練習

何か書くと楽しい、かもしれない。

哲学入門(バートランド・ラッセル著)8章 メモ(9)

 カントの純粋理性批判をヒントに読み進めてきたが、そもそも私は純粋理性批判(参考3)の上巻の180頁くらいまでしか読んでいない。そんな状態でここまで突っ走ったが良かったのだろうか。勿論良くないに決まっているけれど、それしかヒントがないので仕方がない。私の暴走は続くのだ。
 なんて愚痴ってもしょうがない。哲学入門(参考1)の8章、P108の7行目からです。


<要約1>
 哲学者が「アプリオリなことは心的であり、外の事実よりも私たちの考え方に関する」とするのは普通のことだ。
 前章で矛盾律は思考法則と呼ばれるが好ましくない(間違っている)と述べた。その理由を説明する。
 (一般に)矛盾律が思考法則と呼ばれるのは、それが観察ではなく考えることで納得されるからだ。ブナの木がブナの木であり且つブナの木でない、ということは観察ではなく考えることで分かる。
 だからといって矛盾律を思考法則だとするのはまだ早い。矛盾律矛盾律が正しいと信じることで成立しているのではなく、単に世界の事実を示しているだけなのだから。(参考1 P108、7行~P110、2行)
<読書メモ1>
 ラッセルは人間が何をどう認識しようが事実は事実として人間の心の外に存在すると言いたいのかもしれない。だから矛盾律は人間がいない世界でも成立するので、それを人間の思考法則と呼んではいけないと言っていると私は理解した。

 

<要約2>
 同様に、2+2=4という算術の正しさは我々の心(認識)がどうであろうとも、アプリオリであるかどうかに関係なく(事実として)成立する。
<読書メモ2>
 矛盾律アプリオリな綜合的判断、因果律、原因と結果。これらは人間の心が作り出すものであり、世界に存在する事実は何ら変わることはない、とラッセルは言っていると理解した。
 ラッセルが『アプリオリな「判断」』あるいは『アプリオリな「認識」』ではなく、『アプリオリな「知識」』という表現しか使わなかった理由もそこにあるのだろう。判断や認識は人間の感性や悟性や理性が行う操作であるため、本章の結論が出るまでラッセルはそこをあえて問題にしていない。「知識」あるいは「センスデータ」といった事実に限りなく近い言葉を使ったのだ。一足飛びに形而上の概念を議論する前に、事実は事実だということを押さえておきたかったのだろう。
 
 カントは「我々はこれまで、認識はすべて対象に従って規定されねばならぬと考えていたが、対象が我々の認識に従って規定せられねばならない」と述べ、これを天体の動きという変わらぬ事実に対して人間の悟性判断が天動説から地動説に切り替わったことを例に挙げて説明している。そしてこの手法を形而上学にも適用しようと試みた。(参考3 P33)
 カント哲学は判断と認識に関するものだ。そのためにどの判断や認識がア・プリオリなのかが重要であり、そこから悟性と理性が認識し得る限界、つまりは事実の認識と形而上的な概念の認識はどのようにしてあるのかが重要であると論じた。

 従って、事実とそれらの関係は人間の認識がどうあろうと存在するというラッセルの哲学は、当然ながらカント哲学を批判せざるを得ないのだろう。

 

 ここまで書いてふと不安になる。私の理解はどこまで合っていてどこから間違っているのか全然分かりませーーん!

 

参考1 哲学入門 バートランド・ラッセル著、高村夏輝訳、ちくま学芸文庫、第二十刷
参考2 http://www.gutenberg.org/files/5827/5827-h/5827-h.htm
参考3 純粋理性批判(上) カント著、篠田英雄訳、岩波文庫、第72刷