作文練習

何か書くと楽しい、かもしれない。

「語りえぬものを語る」 読書メモ(第13章、その2)

 本書(参考1)ウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。抜粋といっても私の理解できた内容に文章を崩している。本記事は13章の註に関する。

 以下、本文抜粋。

 

P224

【1.論理空間・無限・規則のパラドクス】

 論理空間は言語的なものではない。また、論理空間は無限の可能性があるというのは間違いである。

 

 規則のパラドクスは『論理哲学論考』の精神的な核心部分を破壊する。『論理哲学論考』におけるウィトゲンシュタインの根本的な問いは「世界にア・プリオリな秩序は存在するか、存在するならそれは何か」である。

 

 『論理哲学論考』でウィトゲンシュタインは論理こそア・プリオリな世界の秩序であると述べた。だが論理空間はわれわれの経験に依存するのでア・プリオリには存在するものではない。そこでウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』において論理は操作によって見てとられるものだとした。

 

 どうして操作がア・プリオリな秩序と結びつくのかを以下に説明する。

 

 例えば「裏返す」という操作は、二回裏返えせば何でも元に戻る。これは裏返すという操作の本性から成り立つことで、何を裏返すかに依存しない。論理のア・プリオリ性もこれと同じ仕方で論じられる。ここまでが準備運動である。

 

 P226

 まずは論理的な語彙のうち否定だけ限定して説明する。極めて簡単な論理空間を考えるため、可能な事態はAとBの二つだけを想定する。

 

 W1={A,B}   AとBが成立している世界

 W2={A}  Aが成立している世界

 W3={B}  Bが成立している世界

 W4=φ     AもBも成立していない世界

 

この四つの可能な世界を集めたものがこの場合の論理空間である。この場合、現実に成り立っている世界はW1、W2、W3、W4のうちのどれかだということになる。

 

 ここでAを主張した場合、世界はW1かW2のいずれかである。命題「A」が指定する論理空間の中のこの部分領域{W1、W2}を命題「A」の真理領域と呼ぶ。一般に命題は論理空間註にその命題に対する真理領域を指定する。

 

 「A」を否定する「Aではない」という真理領域にあたる部分領域は{W3,W4}となる。つまり真理領域の否定はその真理領域を反転させる操作となる。

 

 そのことは二重否定が肯定に等しいという論理法則(二重否定即)を説明する。否定が領域を反転させる操作であるという本性から、二重否定測はア・プリオリに成立する。

 

 ウィトゲンシュタインは他の論理的な言葉も真理領域を操作すると考えた。

 

AかつB  Aの真理領域とBの真理領域を作る操作

AまたはB Aの真理領域とBの真理領域を合わせた領域を作る操作

AならばB Aの否定の真理領域とBの真理領域を合わせた領域を作る操作

 

 ポイントは「かつ」「または」「ならば」といった論理的推論に用いられる言葉が論理空間上の操作を表すことだ。この操作は論理空間がどのようなものであろうとも一定の働きをもつ。つまり操作は経験に依存しない。経験に依存しないから、操作はア・プリオリ性を持つ。かくして論理のア・プリオリ性は操作のア・プリオリ性から説明される。

 

 さらに、数や無限も操作の本性から見てとられる。操作の本性は何に対してその操作を施そうともそれは同一の操作であることだ。同一の操作は何度も反復することができる。ここに無限が姿を現し、操作の反復回数が自然数となる。即ち操作は論理であり数学である。

 

 『論理哲学論考』におけるウィトゲンシュタインの根本的な問いは「世界にア・プリオリな秩序は存在するか、存在するならそれは何か」だったが、その解答は「存在する。それは論理と数学だ。」となる。

 

 ところがここに規則のパラドクスが立ちはだかる。規則のパラドクスは『論理哲学論考』の構図を突き崩す。

 

<読書メモ>

 私の理解した部分をメモしておく。

 操作の繰り返しは「以下同様」が成立することが前提となって成立する。何に対しても同一の操作を繰り返すことこそがア・プリオリな秩序の条件だとすれば、「以下同様」が成立しない論理空間においては「論理と数学」も成立しないのではないかと著者は言いたいのだろう。

 

P231

【2.ア・プリオリな秩序】

 それではわれわれは「世界にア・プリオリな秩序は存在するか、存在するならそれは何か」という問いにどう答えるのか。

 

 ここで、「ア・プリオリ」には「強いア・プリオリ」と「弱いア・プリオリ」があることを説明する。

 

 論理法則である排中律は「A、または、Aではない」で表現されるものだ。これは命題Aが何であれ必ず真となる。排中律は命題Aの真偽に関係なく成立することから、ア・プリオリに成立すると言える。これが「弱いア・プリオリ」と呼ぶものであり、(行為空間に立つ)われわれとしても(弱いア・プリオリであれば)論理だと認めることができる。

 

 他方、『論理哲学論考』の論理はもっと強いア・プリオリだ。論理は論理空間にあり方に制約されない。そして世界のあり方から独立とされる。

 

 しかし、規則のパラドクスにより『論理哲学論考』の考えは否定される。論理のあり方はわれわれの自然な反応傾向である「人間本性」に依存している。われわれの生物としての本性や習慣の形成といった事実の支えを必要とする。よって強い意味において論理はア・プリオリではない。これが「ア・プリオリな世界の秩序は何か」という問いに対するわれわれの解答である。

 

 

<読書メモ>

 後半の【2.ア・プリオリな秩序】は難解だ。私の分からなかった部分を書き出す。

 

 強いア・プリオリである論理と数学は世界のあり方から独立しているが、論理空間を形成するア・プリオリな秩序とはなり得ない。

 一方、弱いア・プリオリである排中律は、論理空間を形成するア・プリオリな秩序として認められる。但し、排中律が世界のあり方(論理空間)から独立しているかどうかについては何度読んでも分からない。独立しているから論理として認められるのだが、そのあり方は人間本性に依存しているということなのだろうか。

 

 以下はメモ。

 

 排中律については本ブログ記事 哲学入門(バートランド・ラッセル著)7章 メモ(1)(2021-05-01)哲学入門(バートランド・ラッセル著)7章 メモ(2)(2021-05-03)ラッセルの解説をメモした。

 

 ラッセルは排中律を思考法則と位置付け、排中律を論理的原理としながらも「われわれの思考がそれらの法則と一致したとき、別のことが多少なりとも蓋然性をもつことを推論できるもの」とし、「前提から別のことが確実に正しいと推論できる」論理的原理と区別している。

 

 おそらくラッセルのこの解説が、強いア・プリオリと弱いア・プリオリを理解するヒントになりそうだ。ただ、同じ弱いア・プリオリであっても、排中律帰納法は全然扱いが違うと推測する。帰納法は「以下同様」が使えなければ成立しない、極めて人間本性に依存した思考法則だからだ。

 

 おそらくカント、ラッセル、ウィトゲンシュタイン野矢茂樹に至るまで「ア・プリオリ(先験的)」なものは何かという問題と、論理(特に数学)をどう扱うかという問題は極めて重要なのだろう。そして、みんな繋がっている。

 

 

参考1 語りえぬものを語る 野矢茂樹著 講談社学術文庫 2020年、第1刷