作文練習

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哲学入門(バートランド・ラッセル著)10章 メモ(6)

 ラッセルの哲学入門(参考1)10章の抜粋と読書メモの続きです。抽象的なことしか書いてありませんが、すべて今まで実例を挙げて説明されていたことでした。3章を読んでみて、こんなこと書いてあったっけ?みたいな新鮮な感じでした。

 

P134、13行~P135、6行
 知識の大半にとって(実例のない)一般命題は不可欠だ。センスデータに対比される物的対象は推論によってのみ知られ、私たちの面識するものではない。
「これは物体である」という命題において、「これ」が直接的に知られるものを指すとするならば、この命題を私たちが知ることはない。物的対象についての知識は、関連するセンスデータは与えられても、物的対象の現実の例はまったく与えられない知識である。物的対象の知識は実例を与えることが不可能な一般知識の可能性に依存している。
 例えば、他者の心など、面識によって実例を知ることができないものはどれも同じことが言える。
<読書メモ>
 まるでヴィトゲンシュタイン論理哲学論考のような文章が並んでいる。しかし、論理哲学論考と異なる点はラッセルが実例を示して詳しく説明していることだ。感謝、感謝。
 この部分は第3章P36~39に詳しく書いてある。我々の五感を使って面識するものは、実際の物的対象(physical object)に関するセンスデータであるが、物的対象そのものではない等々と書いてある部分だ。感覚から得られるものは物的対象そのものではないということを私はつい忘れがちである。
 まったくもって他人の心も同じだ。仮にある人が私に敵意を含んだ言葉を言った場合、その言葉を客観的に理解するのは非常に難しい。ついつい私自身を守るために反撃、逃亡、自己正当化をやってしまい、相手の立場や真意は置き去りになってしまう。負の感情というバイアスに視界が真っ黒になってしまうのだ。
 ともかく、ラッセルの論旨の展開について行くのはなかなか骨が折れる。おそらく主体と客体、存在するものと感覚するもの、そこから推定・判断するもの、判断に至った論理と形式の識別、自分の思考と他人の思考の区別など、明確に分ける思考回路が無いからだと思う。八百万の神と自然と自分は一体で区別がないという世界にずっと生きてきたからかもしれない。


参考1 哲学入門 バートランド・ラッセル著、高村夏輝訳、ちくま学芸文庫、2018年、第二十刷
参考2 http://www.gutenberg.org/files/5827/5827-h/5827-h.htm